【仏教ブログ】卒業式のシーズン。卒業後の向かうべきところを考える その2
光顔寺明照廟堂/水月精舎(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。
前回の記事の続きです。
卒業式のシーズンですが、人生にも卒業があります。その際に向かうべきところを、以下のように善導大師は書かれています。
帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到るところに余の楽しみなし。ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢へてのち、かの涅槃の城に入らん(教行信証・証文類)
(現代語)
さあ帰ろう、迷いの世界にとどまるべきではない。はかり知れない昔からさまざまな迷いの世界を生れ変わり死に変りし続けてきた。どこにも何の楽しみもなく、ただ嘆き悲しみの声ばかりである。この一生を終えた後には、さとりの浄土に往こう。
私たちの人生は、この人生が初めてではありません。
曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。
とあるように、ずっと昔から現在に至るまで六道といわれる迷いの世界を生まれては死に、生まれては死にを繰り返してきました。六道というのは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上を言われたものですが、その全てを経めぐってきたのだと言われています。この人間世界にも何度も生まれてきた事でしょう。
到るところに余の楽しみなし。ただ愁歎の声を聞く。
そのどの世界に生まれたとしても、楽しいところはなく、ただ憂いや嘆きの声ばかりが聞こえて来ました。楽しい事はあっても、それが何時までも続かないので愁嘆の声は止むことはありません。
この生平を畢へてのち、かの涅槃の城に入らん
この人生を卒業した後は、阿弥陀仏の浄土へ往生させて頂きましょうと言われています。
しかし、そのように言われても見た事もない浄土へどうやって往生したらよいのかと思われる方もあると思います。確かに、仏様でもない私の目では浄土がどこにあるのかも分かりませんし、往く方法も知りません。
この文章を書かれた善導大師は、浄土から阿弥陀仏が私を喚ばれているのだと仰っています。
西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。(教行信証・信文類より)」
西の岸と言うのは、いわゆる彼岸のことです。彼岸からこの此岸にいる私に向かって「ただちに来れ」「汝を護らん」と喚び続けておられます。そのように喚ばれているからこそ、「帰去来、魔郷には停まるべからず」と言われています。
喚ばれる声にしたがって、本当に帰るべき所に帰るのが人生の卒業で向かうべき道であると、善導大師や親鸞聖人は教えられています。
以下の画像はAIが考えた
西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、
「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。(教行信証・信文類より)です
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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)
Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。