仏教ブログ

【仏教ブログ】いつもと違うお盆になる人へ2020年08月01日 00:08

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

8月になると、お盆に帰省をして墓参りや、法要を務める人も多いと思います。ところが、今年はこのコロナ禍で特に東京や大阪の人を中心に帰省を取りやめようと人も多いと聞きます。

そこで、お盆とは一体なんなのかについて改めて考えて見たいと思います。

お盆の行事の起源となったのは、「孟蘭盆経」と言われています。このお経には何が説かれているのかというと、お釈迦さまのお弟子である目連尊者がお釈迦さまに相談に来ました。

目連尊者は、釈尊十大弟子の一人であり神通力第一といわれる人でした。その目連尊者は、自らの神通力をもって亡き母が今どこで何をしているのかを探して見たところ、母親は餓鬼道で苦しんでいることが分かりました。

餓鬼道とは、いつも飢えて食べたいものが食べられない世界をいいます。その餓鬼道で苦しんでいる母親を知り、目連尊者は何とか母親に食べ物を与えようとします。しかし、母親が食べ物を口に運ぼうとすると、食べ物が炎となって食べることができません。

そこで目連尊者は、お釈迦様に相談をすることになったのです。亡き母の現状を伝えて、どうしたら餓鬼道から救うことができるのでしょうかと、目連尊者はお釈迦さまに訊ねました。

それに対してお釈迦さまは、「それはお前一人の力ではどうすることもできない。多くの僧侶の力を借りるのです。そこで、今の安居の終わった日に、僧に食事と休む道具を供養しなさい。そうすれば母は今の苦しみから逃れることが出来る。母だけでなく、父も、七世に渡る父母・六親眷属も苦しみから逃れることができる。」と教えられました。

これが起源となって孟蘭盆会が行われるようになったと言われています。今日の日本で行われるお盆の法要もこれが起源と言われます。亡き母が餓鬼道に堕ちるのは、子供を育てるのにそれだけいろいろな苦労もあり、餓鬼道に堕ちるような罪を作らねばならないとみることも出来ます。亡き父母の喜ぶことは私が本当の幸せになることではないでしょうか。

そこで、浄土真宗では先祖を救うという意味での供養をすることはないので、亡き父母や先祖をご縁として仏法を聞く集まりとして孟蘭盆会(場所によっては歓喜会)が開かれます。

帰省をして、墓参りなどをするのもお盆の法要ですが、それができない人は近くの法座に参加されるのもお盆の法要になりますのでお勧めします。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】無明の酒に酔った人へ「しらふで生きる」(町田康著)より2020年07月15日 13:07

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

新型コロナウイルスによる自粛も解禁され、観光地にも人が戻ってきています。徐々に以前のような生活に戻りつつあります。

これまでの自粛要請期間で何度か報道されていたのが、在宅時間が長くなることによる飲酒の増加で健康を損なう人が出てくるのではないかというものでした。

※参照

【新型コロナ】知らぬ間に、飲酒量が増えていませんか? 専門家「緊張状態が続く今、危ない」(ハフポスト日本版)

この度のコロナ禍で、在宅ワークに変わったり、あるいは仕事が減ったり失ったりでそのストレスからいつも以上にアルコールに手が伸びるのも気持ちとしてはよく分かります。

酒を飲むことでストレス解消になる人もあります。しかし、それで本当にストレスが解消しているのでしょうか?

そうではないということを、「しらふで生きる 大酒飲みの決断(町田康著)」から紹介します。

著者の町田康氏は、芥川賞作家で30年間一日も欠かさずに酒を飲み続け、さまざまなトラブルを起こしてきました。それがある日酒を辞めようと思いそれ以来4年間断酒を続けています。その経緯を書いた本がこの「しらふで生きる 大酒飲みの決断」です。

そこから一部引用します。

酒をやめたと言いしばしば酒徒から受ける問いに「それで人生寂しくないですか?」というのがあるがそんなことはない。なぜなら、人生とはもともと寂しいものであるからである。(酒を飲んでも飲まなくても人生は寂しい より 「しらふで生きる」)

酒を飲む人は、酒を飲まないと人生は寂しいと考えます。しかし、この考え方は酒飲みに限らずあらゆることに当てはまります。それは「仕事」であったり「家族」であったり「趣味」であったりします。それらがないと、「人生寂しい」と私たちは考えてそれらに熱中します。

しかし、この町田康氏が言うように「人生はもともと寂しいもの」なのです。いろいろなものをもってきて、寂しい人生を楽しい人生にしようとしても、それは暗い部屋にロウソクをともしたようなもので、部屋そのものが暗いことに変わりはありません。

それでも、いろいろなものによってその人生の寂しさを紛らわせているのが私ではないでしょうか?

親鸞聖人の書かれたお手紙にはこのようなことが書かれています。

もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。(親鸞聖人御消息)

そのことを「無明の酒に酔ひ」と言われています。多くの人は、いわば酒に酔っているようなものだということです。何が大事なのか判断が出来なくなっています。

そんな無明の酒に酔っている私が、阿弥陀仏の本願を聞いてより、その酔いも醒め南無阿弥陀仏と申す身になったと言われています。

人生は寂しいものですが、無明の酒では解決できません。南無阿弥陀仏を聞いて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】本当に大事なことは何でしょう?三帰依文から聞く32020年07月01日 01:07

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

三帰依文について書いてきましたが、今回は3回目です。

今回は、以下の部分について書きます。

無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。

願わくは如来の真実義を解したてまつらん。

大まかな意味は、この上ない大変深い法は、どれだけ長い間懸かっても出会うことはないくらい遇うのが難しいものです。それを私は今、聞いて受けることができました。願うことは、仏様の真実の教えを理解できるようになりたいです。

となります。

同じ三帰依文の最初にも「仏法聞き難し、いますでに聞く。」とあります。それだけ、仏法は聞き難いものなのです。

では、なぜ聞き難いと言われるのでしょうか?

それは、生死の解決を説かれているからです。私たちにとって、分かりやすい病気が治るとか、人間関係が円滑になるといったような話は大勢の人にとって関心のあることです。事実、そのような本も沢山出ています。

反対に多くの人にとって、生死の問題は忙しい毎日の中でついつい後回しにしたり、忘れられているものです。人は生まれたからには、必ず死なねばなりません。そして、死んだ後はどうなっていくのでしょうか?

特に死ぬこと自体も、現代人は忘れがちです。人生の最後を病院で迎える人は、日本人の場合は8割を越えています。そのため、人の死に立ち会う場面も少なくなっています。他人の死でもそうですから、まして自分の死となるといつかはやってくるとはいえ、気にしない人が大半です。

気にする人はあっても、葬式や墓の準備まではしても、いざ自分が死んで行かねばならないということを本当に考える人はどれほどあるでしょうか?

仏教では、私たちは生まれて死んだ後はまた、別の生を受けまた死んでいくことを繰り返していくと教えられます。しかも、それは際限なく続くので生死流転とか、流転輪廻と言われます。その際限なく繰り返す生死から出て離れることを、生死出離といいます。その生死を離れ、本当の安心を得るのが仏教で言う解脱です。

どんな人にも必ずやってくる死という問題も、この生死から出て離れないことには解決ができません。ただ、そんな問題も多くの人はついつい忘れて過ごしているので仏法は聞き難いと言われます。

いろんなご縁で、その生死の問題に目が向いて、仏法を聞こうという気になられたら、それは大変有り難いことです。また生死の問題は、とても大きなものですが、そこから出て離れる法ですから「無上甚深微妙の法」と言われています。それだけ、この上なく深い教えが仏教ですから、是非聞いて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】本当によりどころとなるものについて。三帰依文から聞く22020年06月15日 16:06

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の記事で、三帰依文について書きました。

今回はその続きです。

大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。

自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。

自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。

自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。

無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。

願わくは如来の真実義を解したてまつらん。

ここで三帰依について浄土真宗辞典ではこう書かれています。

さんきえ 三帰依

略して三帰ともいう。帰依仏・帰依法・帰依僧の三。仏・法・僧の三宝に帰依すること。この三帰依は仏教徒としての必須条件である。

「帰依」というのは、信じよりどころとすることの意味です。

そこで三帰依文の大まかな意味を書きますと、今回先にあげたものはこうなります。

みなさんも私も、まことの心で仏さま、仏様の教え、その教えを信じる人の集まりを信じよりどころとしてください。

そして私は、仏に帰依いたします。法(教え)に帰依いたします。僧(教えを聞く人の集まり)に帰依いたします。

この上のない大変深い教えは、どれだけ長い期間迷い続けていてあうことが難しいものです。私はそれにいまあわせて頂き聞くことができた。どうか仏様の真実の教えがわかるようになってもらいたいと言われています。

昨今のコロナ禍によって、それまで信じてよりどころとしていた人やものを失った人も多くおられます。例えば、観光に携わる仕事の人たちはその前提であった観光客が来なくなり大変苦しい状況になっています。飲食店の人は人が外食をするという前提が崩れ大変苦しい状況になっています。

それまで当たり前だったと思っていたことも、いつどうなるか分からないということを改めて知らされたのが昨今の状況です。

私たちは、それぞれがこれは間違いないということをよりどころとして生きています。しかし、それが本当に間違いないものなのでしょうか?いつどうなるか分からないものを拠り処として生きていくと、いつか崩れるのではないかと常に不安がつきまといます。

そこで私たちが本当に拠り所となるものはなんなのか。それについて仏・法・僧の三宝に帰依をしなさいと勧められ、私は仏・法・僧の三宝に帰依いたしましたというのがこの三帰依文です。どうか、みなさんもこの仏・法・僧をよりどころとして、また拠り処となりましたという安心をえて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】本当に大事なことは何でしょう?三帰依文から聞く12020年06月01日 16:06

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

緊急事態宣言が終わり、少しは日常が戻って参りました。

特に小中学生にとっては待ち望んでいた学校の再開です。日ごろは、学校から帰ってゲームばかりしていた子供も、長い休みの間、外にもあまり出られず、ゲームばかりをしてさすがに飽き飽きしたという声も聞きました。子供にとって本当に大切なもの、やりたいことは何だったのかを振り返る機会だったのかもしれません。

子供に限らず、私たちも、本当に大事なものは何だったのかを考える期間でした。いつも当たり前のようにあったものが、先日の緊急事態宣言の間になくなってしまったものもたくさんあります。また会わなくなった人も多くいると思います。このように、本当に大事なものというのは失って初めて気が付くことが多いです。反対に、失って見て思ったほど自分にとって大事ではなかったと気がつくものもあります。

では失ってそれが大事だったか、そうではなかったの違いはどこで起きるのでしょうか?それは、自分にとって替えがきかないものかどうかです。

「三帰依文」には以下のような言葉があります。

人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。

大まかな意味を書きますと、人間に生まれることは難しい、しかしその受け難い人としての生をいますでに受けている。仏の教えは聞き難いが、いますでに聞かせて頂いた。このいまの私が、この人生で迷いを離れることができなければ、さらに何度生まれ変わりを繰り返しても迷いを離れることはできないだろう。というものです。

私のいのち、私の人生というのは私にとってもっとも掛け替えのないものです。なぜなら、私の人生を他の人に変わってもらうことはできないからです。それも、その人間に生を受けるということは大変有り難いことです。そのありがたい人間の身に生を受けたのですから、無為にすごすのは大変勿体ないことです。

仏教もまた掛け替えのない教えです。なぜなら私が迷いを離れる教えが説かれているからです。そんな教えにはなかなかあい難いものですから、仏法聞き難しといわれます。

その仏法をいま聞いている人は、掛け替えのない機会を得ているわけですから、この今の人生で迷いを離れなければ、次にいつ人としての生を受け、その上仏法をきくことがあるでしょうか?だからこの人生で迷いを離れましょうといわれているのが三帰依文の最初の部分です。

私にとって、本当に大事なものはこの私のいのちです。ですが、ただ迷いを重ねることが大事なのではなく、迷いを離れることが大事です。そして迷いを離れることを教えられているのが仏法ですから、どうぞその教えを聞いて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】ソーシャルディスタンスで感じる距離感は、実は人生の実態をあらわしているのかも2020年05月15日 12:05

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

新型コロナウイルスの感染拡大防止に向けて、最近よく耳にするようになった言葉の一つが「ソーシャルディスタンス」です。飛沫感染を防ぐ為に、他人と2メートル以上の距離を置きましょうというものです。それによって、4月の緊急事態宣言以降、全国のスーバーやコンビニエンスストアではレジに並ぶ列に、二メートル間隔を開けるための足型マークが付けられるようになりました。

加えて、スーバーでもほとんどの人がマスクを着用しており、そこで知人に会ってもマスクを掛けたままお互い距離をとって手短に挨拶をするような光景を見るようになりました。また、三密(密閉、密集、密接)を避けるということで旅行も食事会も寄り合いも自粛となり、加えて移動自粛の要請もあり、都道府県をまたいだ先の家族や友人に会うことも難しい期間が続いています。その結果、家にいる時間が多くなった人も多いと思います。また、一人でいる時間が増えた人も多いと思います。

そこで感じるのは「人に会いたい」という欲求です。しかし、よくよく考えて見ると、新型コロナウイルス以前に自由に人と会ったり話が出来る環境だった時に、本当に人と会っていたのでしょうか?マスク越しや2メートルの距離をとっての会話は今までの人間関係を可視化したものにすぎません。マスクを外して、近い距離で会話をしたとしても本当にその人と分かりあうことができるのでしょうか?本当に相手と分かりあうことを「人に会った」というのであれば、私たちは人に会っていないのかもしれません。

そういう意味で、人は独りなのだということを知らされるのが最近の社会状況です。

そのことを、お釈迦さまは、仏説無量寿経にこのように説かれています。

「人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。」

(現代語版)

人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。

「善悪自然にして行を追うて生ずるところなり。窈々冥々として別離久しく長し。道路同じからずして会ひ見ること期なし。」

(現代語版)

それぞれ善悪の行いにしたがって生れて行くのである。行く先は遠くてよく見えず、永久に別れ別れとなり、行く道が同じではないからまず出会うことはない。

人は生まれた時も独りならば、死んでいくときもまた独りです。

そして、生きている間に出会った人々とも、それぞれの行き先は別々となり、一緒に死んでいくことはありません。

ソーシャルディスタンスで感じる距離感や孤独感は、実はソーシャルディスタンスによるものではなく実際の孤独感をよりわかりやくすくしたものです。

しかし、こういう私たちに共に一つの処で会うことが出来るといわれたのが、阿弥陀仏の浄土であり、その阿弥陀仏の浄土に往生する道を教えられた浄土真宗です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】移動自粛で帰省できない今年の大型連休に本当に帰る場所を考える2020年05月01日 01:05

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

2020年4月日本政府は新型コロナウイルスの感染拡大をうけて、全国に緊急事態宣言を出しました。それによって、都道府県をまたいでの移動自粛が呼びかけられました。

いつもの年ならば、大型連休に実家へ帰るUターンラッシュで大混雑の公共交通機関や高速道路も今年は閑散としています。子供や孫の顔を見るのを楽しみにしていた親御さんにとっても大変寂しい連休となりました。

こうなると故郷があっても帰ることができないというのは辛いものだと感じます。また迎える側からしても、帰ってくる筈の子供が帰ってこないというのは残念なものです。

しかし、これを機会に考えて見ると、私が本当に帰るところは一体どこにあるのでしょうか?都会から地元に帰省する人も、連休が過ぎればまた都会へと戻っていきます。迎える側からしても、「帰ってきた」と喜んでも連休が終わればまた見送らねばなりません。そうして、都会で働く人も、地元で迎える人もいつまでもそれを続けることはできません。いつかは、この命も終わりを迎える時がやってきます。

そうなったときに、私が本当に帰るべきところはあるのでしょうか?もし無かったとしたら、私は死んでどこへいってしまうのでしょうか?見送った人もどこへ行ってしまったのでしょうか?

それに対してお釈迦さまは阿弥陀経の中で、阿弥陀仏の極楽浄土を教えておられます。

「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。」(仏説阿弥陀経)

(現代語版)

ここから西の方へ十万億もの仏がたの国々を過ぎたところに、極楽と名づけられる世界がある。そこには阿弥陀仏と申しあげる仏がおられて、今現に教えを説いておいでになる。

阿弥陀仏の浄土は、西にあると言われています。なぜ西なのかと言えば、西は太陽が沈む方向ということから全てのものが最後に帰する方向をあらわされています。どんな人でも死なない人はいませんが、またどんな人も最後帰るところが阿弥陀仏の浄土なのだと教えられています。そのため、親鸞聖人も阿弥陀仏の浄土に往生することを勧めておられます。

帰る地元がある人にとっては、地元があることは有り難いことです。しかし、本当に帰るべきところがあるということはもっと有り難いことです。それを教えられ、浄土へ往生する道を説かれたのが浄土真宗の教えです。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】新型コロナウイルスで変わること変わらないこと2020年04月11日 14:04

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

世界中で新型コロナウイルスによる感染者が増え続けています。当初は、暖かくなれば終息するのではと思っている人も多かったと思いますが、感染はどんどん広がり日本では東京オリンピックも1年延期となりました。

自覚症状が出ない感染者からの広がりもあり、誰が感染者かも分からないまま自分も感染しているのかもと思う生活がしばらく続くと思います。とはいえ、人類の流行病の歴史からいってもいつかは終息します。ただ、いつ終息するかは全く分かりません。

しかし、この新型コロナウイルスが流行する前と終息した後では大きく世の中が変わってしまうことでしょう。

その中で大きなものは人が人を信用できなくなるというものです。

これまでの社会は、大体のことは調べれば正解が見つかり、専門家に聞けば正しい情報を得ることができました。また、社会や知人などを信用してなりたってきたのがこれまでの世界でした。

それが、新型コロナウイルスに関しては、誰も正解が分からないので、どんな専門家の意見も頭から信じることができません。まして、専門家でもない人の意見は社会的に有名人であってもそれまでのように信じることが出来なくなりました。また、いろいろなデマも出回り、商品の一時的な品切れが起きたりもしました。そして、道行く見知らぬ人も、知人も「感染者なのでは?」と最初から疑ってかからなけれはならなくなり、最初から人を信じることができない社会になっていきます。

そのように社会は変わってしまうのではないかと感じています。一度そうなってしまうと、かつてのような社会には中々戻ることはできません。

しかし、時代や社会が変わっても、変わらず人を本当の意味で救うのが、真実の宗教です。

浄土真宗の「真宗」とは「真実の宗教」のことで、阿弥陀仏の本願の事を指して言われています。では、阿弥陀仏の本願とは何かといいますと、阿弥陀仏という仏様が「私を必ず救って捨てない」という本当の願いであり、そのように助けると呼びかけられる真の言葉が南無阿弥陀仏です。

それが、本当だったなと言われているのが、親鸞聖人の書かれた教行信証の以下のものです。

−−−

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行信証 総序)

−−−

摂取不捨の真言とは、私を摂めとってすてられてないという真実の言葉であり、南無阿弥陀仏のことです。超世希有の正法とは、この世を越えたふたつと無い正しき法の琴です。これを計らいなく聞き入れて、疑ったりためらってはならないと言われているのが、「聞思して遅慮することなかれ」の意味です。

人や人の言葉が信じられなくなっても、阿弥陀仏の本願は私を救うという真の言葉です。どうかみなさんも聞いて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】桜の花と親鸞聖人2020年04月01日 13:04

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

今年も桜の季節となって参りましたが、例年と異なり新型コロナウイルス対策で各地で花見の宴会は自粛されています。去る3月25日・26日は東京の桜の名所も封鎖された箇所が幾つもありました。

人は見なくても、桜は今年も咲いております。そして、いつの間にか散ってしまうのもまた桜です。

桜と言えば、浄土真宗では親鸞聖人が比叡山で出家をされる際によまれたと言われる歌が有名です。

それはこんな歌です。

「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」

親鸞聖人は、ひ孫である覚如上人によって書かれた「御伝鈔」によると1181年(養和元年)9歳の時に出家をされたと言われています。その時、比叡山で出家をする際には得度の式をしなければなりませんでした。比叡山・天台宗の座主も務められた慈円僧正のもとで出家をすることになったのですが、その日は都合が悪いので明日得度の式をしようという話になりました。その際に親鸞聖人が読まれたといわれているのが上記の歌です。

明日あると思っている桜も、夜に嵐が来るとあっと言う間に散ってしまいます。明日あると思っているうちにその日は来ないかも知れませんと訴えて、その日の内に得度の式をされたという伝承があります。

ぱっと咲いてぱっと散るのが桜の特徴です。そのはかない相から、世の無常をあらわす象徴として歌によく読まれています。人の命も同様に、気がついたら生まれていて、いつまでも生きているかのように思っていると、ある日ぱっと命が散ってしまいます。

親鸞聖人は、そういう人生を感じられて9歳で出家をされました。桜が必ず散るように、自分も必ず死んでいかねばなりません。変わらないものが何一つない無常の世界で、変わらぬさとりの道を求めて出家をされました。

私たちは、今日出家をするという人にあったことのある人は殆どないと思います。しかし、出家をしなくても命に限りがあるということに変わりはありません。桜の花は散れば土へと還っていきますが、私は死ねばどうなるのでしょうか。仏教では、それを生死といわれ生死は果てしなく続き止むことがないと教えられています。

その生死を出て離れる道を教えられたのが仏教です。その仏教を聞いて、どうか生死を離れた世界に出ていただきたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】昨今のコロナウイルス問題から思い出す御文章4帖目9通「疫癘」(2)2020年03月13日 09:03

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の続きです。

−−−−

当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。(御文章4帖目9通)

−−−−

流行病で多くの人が亡くなることに対する驚きに対して、蓮如上人は「さのみふかくおどろくまじきことなり」と言われています。

当時の人は、病気が流行する原因を、何かの祟りであったり、日の善し悪しに求めてそれを恐れる人も多くいました。しかし、仏教では縁起によって物事を説明されます。縁起とは、業を因として、それが結果として現れるのに縁となるものと合わさって、結果が出てくるというものです。その意味では、病気が因となって死と言う結果が現れたのではなく、生まれたことが因であって、病気は縁となり死と言う結果を表したということです。決して何かの祟りで人が死んだということはありません。

今回の新型コロナウイルスもそのうち終息していくことと思います。そうなれば、時間とともに今回の問題も忘れ去られていくことでしょう。しかし、病は死の縁でしかありませんから、今回のウイルスが終息したからといって死なくなったのではありません。

言い換えれば、病気の対策は出来ても、死ぬ対策はしないまま死を迎えるということです。必ず死なねばならない私にとって、生きることは期間限定のつかの間のことであり、死ぬことは分からないまま迎えなければならないものです。そうなると、生きることも死ぬこともどういう意味があるのか考えてしまいます。

それに対して浄土真宗では、阿弥陀仏の救いを教えられます。

−−−−

このゆゑに阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。かかるときはいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、極楽に往生すべしとおもひとりて、一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじきことなり。(同上)

−−−−

阿弥陀仏は、罪はどれほど深いものでも、一心に阿弥陀仏にまかせるものは、必ず救うという仏様です。その阿弥陀仏の「必ず救う」の仰せにまかせ、疑うこころ露ちりほどもない身になって浄土に往生する身になるのが、私が生きて死んでいく土台となるものです。

生きていくことも死んでいくことも、この浄土に往生するという土台があってどちらも有り難いものになっていきます。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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