【仏教ブログ】お米より手間のかかったご本願

光顔寺明照廟堂/水月精舎(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

猛暑が続き、9月を過ぎても秋と言う感覚はなかなかありませんが、各地では稲刈りも終わりました。令和の米騒動といわれた米不足も、新米の入荷が始まって一段落の様子を見せています。

一時期は、どこに行っても米がなかなか手に入らず首都圏では特に品薄だったと聞いています。工業製品と違い、品薄になったからといってすぐに増産はできません。米は手間ひまがかかるものなので、廃業する農家も増えていると聞いています。

米は、八十八の手間がかかることから「米」という字になったといわれる程手間のかかるものです。昔は、米一粒でも残すと随分叱られたものです。米一粒から、農家の方の苦労を昔の人はよく知っておられました。

手間がかかると言えば、浄土真宗では阿弥陀仏の本願は大変なお手間がかかったものだと教えられています。歎異抄には、親鸞聖人の言われたこととして以下の文章があります。

聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり(歎異抄後序)

親鸞聖人は、阿弥陀仏が五劫という長期間考えを巡らされて建てられた願いをよくよく考えて見ると、ひとえに親鸞一人を助けるためであったと言われています。

五劫という時間は途方もない時間です。

いろいろな定義がありますが、四十里四方の石があり、それを三年に一度天人がその衣で石を払います。衣の重さは、三銖(約2グラム)です。その石が摩滅してなくなるまでの時間を一劫といいます。その5倍が五劫ですからとても考えられない長い時間です。

阿弥陀仏は、全ての人を助けるためにそれだけ長い間考え続けられました。それは、それだけ全ての人を助けるということが大変難しい問題だったからです。

親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願の救いにあわれた上で、その本願を言われたのがこの歎異抄のお言葉です。南無阿弥陀仏となられた、本願を称え聞くことで、阿弥陀仏の五劫思惟のご苦労を思われています。


※下の画像は生成AIが考えた「五劫思惟のご苦労をされた阿弥陀仏」です。

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Profile

1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。

脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。

現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。

   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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