仏教ブログ

【仏教ブログ】年始の計画に「必ず」はありますか?(2)2022年01月15日 00:01

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の続きです。親鸞聖人の和讃に「必ず」と書かれたものの一つについて書いていました。


(7)

生死の苦海ほとりなし

 ひさしくしづめるわれらをば

 弥陀弘誓のふねのみぞ

 のせてかならずわたしける(高僧和讃)

(現代語訳)

迷いの世界は苦しみばかりの海のように果てがない。(この海に)遠い過去より沈んでいる私たちを、阿弥陀如来の本願の船は、乗せて必ず渡してくださる。


年始の計画だけでなく、私たちの人生においては予測不可能な事の連続です。そのため、あれこれ考え対策をとっても、思わぬ形でそれが崩されると言うことがよくあります。

しかし、阿弥陀仏は本願で生死の苦海に沈む私を船に乗せて「必ず」渡すと言われています。本願がただの願い事であるならば、「必ず」とは言えません。では、なぜ「必ず」といわれるのかというと、その願いがその通りになるにはどうしたらよいかと長い間考えられ、その上で願った通りになるように行をされたからです。

これを「五劫思惟」「兆載永劫の修行」といわれています。「五劫」も「兆載永劫」もとても考えられないような長い時間をいわれています。それだけの時間をかけて考えられ、その上でそれが実現するように行を修めされました。

将棋の世界でも、人間ではすべてを読み切ることはできません。生死の海に沈んでいる私が、どうすればそこから抜け出ることができるかは、どれだけ考えても考えが及ばないところです。また、今年1年のことをどれだけ考えても「それは想定していなかった」ということが起きます。

阿弥陀仏は、私がどうなったとしても「必ず」救うにはどうしたらよいかということで、長い間考えられました。その結果として、その願いは「必ず助ける」という形で成就しています。

その本願を信じ念仏するものは、必ず浄土に往生させるというのが阿弥陀仏の本願です。阿弥陀仏の本願は、すでに「必ず」助けると成就しています。今年は、その本願を聞いて疑い無い身となって念仏し「必ず」浄土に往生する身とさせていただきましょう。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】年始の計画に「必ず」はありますか?(1)2022年01月01日 00:01

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

明けましておめでとうございます。

年も明けて一年の計は元旦にありと言う言葉もありますが、年始に当たっていろいろ計画を立てられる人もあると思います。

しかし昨今のコロナ禍のこともあり、考えても先が見通せないのが世の中だということがよく知らされます。そのように先の見通せない社会において、どうしたら先を見通すことができるのだろうといろいろな人の意見に耳を傾けることもあると思います。

先を読むということでいえば、将棋の世界では藤井聡太四冠が誕生し大いに盛り上がっています。この将棋は、81マスの盤上にお互いが駒を進めて戦わせる勝負です。プロの棋士ともなると何手も先までお互いの手を読んでいくわけです。実際、藤井聡太四冠は竜王戦の第四局で13手先の詰みを読み切って勝利しました。しかし、将棋は10の60乗以上の局面が現れるので全てを読み切ることはできません。

ところが昨今の機械学習の発展により、AIは人間をはるかに超える能力で先を読めるようになりました。将棋の対局中継では、一手指すごとにAIの解析によりどちらが優勢かが画面に表示されるようになりました。

とはいえ、AIも限られた計算能力での先読みなので完全にすべて先を見通せるわけではありません。

将棋も、私たちの人生にも先が見通せない以上「必ず」ということはいえません。ところが、浄土真宗では「必ず」という言葉が出てきます。それは、阿弥陀仏が私を救う事ができるという点では使われます。

親鸞聖人は「和讃」にこう書かれています。


(7)

生死の苦海ほとりなし

 ひさしくしづめるわれらをば

 弥陀弘誓のふねのみぞ

 のせてかならずわたしける(高僧和讃)

(現代語訳)

迷いの世界は苦しみばかりの海のように果てがない。(この海に)遠い過去より沈んでいる私たちを、阿弥陀如来の本願の船は、乗せて必ず渡してくださる。


年始の計画で、今年は必ず〇〇をするとは言い切れませんが。阿弥陀仏が私を必ず助けて浄土へ渡してくださるということは、阿弥陀仏からはいえます。

阿弥陀仏がいわれる通りに、私が「必ず」浄土へ参らせていただけるようになったという年になれば有り難いと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】除夜会について2021年12月15日 00:12

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

師走に入り、気ぜわしい時期となりました。今年は、11月まで例年に比べて暖かい日が続いたため、いつも以上にもう年末なのかと言う気持ちがします。

12月31日になると、除夜会が行われます。除夜の鐘をつくお寺も多くあるので、「鐘を突く集まり」と思われる方もありますが、今年一年を振り返って仏様への感謝の気持ちをあらわす法要となっております。新型コロナウイルスの影響で、全国的に今年も例年通り行われるかどうかはわかりません。

そこで、阿弥陀仏に感謝するといってもいまひとつぴんとこない人もあると思います。阿弥陀仏に対する感謝と何についてのことなのか。それについて感謝の思いが起きるのはこういうことなのだと言うことを教えられた親鸞聖人のお言葉を紹介します。

弥陀の名号となへつつ

 信心まことにうるひとは

 憶念の心つねにして

 仏恩報ずるおもひあり(浄土和讃)

(現代語訳)

弥陀の名号である南無阿弥陀仏を称えつつ、真実信心を得ている人は、如来の本願を憶念する心が常にあり、仏恩報謝の思いから自然に念仏が称えられるのである。

阿弥陀仏という仏様は、私を苦しみから救い浄土に往生させて仏にしてみせると誓われて、その通りに私を救おうとされています。その私を救おうという働きが、私の口から出てきてくださっているのが、南無阿弥陀仏と称える念仏です。

その南無阿弥陀仏と称えながら、私を救うおはたらきであると信じる人は、必ず浄土に往生し仏になる身に定まります。その救ってくださった阿弥陀仏に対して、途切れる事なく感謝の思いが続いていきます。その感謝の思いから念仏申すことを、仏恩報謝の念仏といいます。

また、一度阿弥陀仏に救われた上では、命のある間は私が必ず浄土に往生するまで摂取して捨てないと護って下さることについての感謝を一年振り返ってさせて頂く法要です。

今年を振り返り、ともにお浄土参りの年とさせて頂きましょう。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】年末大掃除・忘れているものはないですか?2021年12月01日 00:12

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

今年も早いもので一年も終わろうとしています。

年末に向けてそろそろ大掃除の準備をしようかと言う人も多いと思います。

大掃除になりますと、日ごろからあれを片付けなければならないなぁと思っていたものを思い切って掃除します。例えば台所の換気扇フードや冷蔵庫の中にある使わなくなった調味料、タンスの中の着なくなった服など、もう使わなくなったり、汚れているけれどもなんとなく面倒なのでそのままにしているものがあります。それらのものを一気に始末をするのが大掃除です。

最近では、断捨離や終活という言葉も定着し、大掃除に限らず不要なものを処分しようという人も増えています。それだけ、現代の私たちは生きていると色々と不要なものを抱えてしまいます。

元々体は一つで、一日は24時間しかありません。家にあるけれども、使わないものも増えてきます。使わない食器や、着なくなった服、二度と読み返さない本などいろいろなものに囲まれています。

それらを手放してすっきりした気持ちで新年を迎えるのはいいことだと思います。しかし、どれだけものを片づけたとしても、必要なものと思っているものでも、最後は全て手放すときがきます。そこで一番に片づけなければならないことは何でしょうか。

蓮如上人は御文章にこのように書かれています。

これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。(御文章1帖目11通)

一息切れた後生のことをよくよく考えなさいよと教えられています。そして、たよりにすべきは阿弥陀如来であるり、信心決定した上で参るのが浄土であるといわれています。

私の命もいつまでも続くものではありません。一番大事な私自身が、後生を迎えたらどうなってしまうのか。それを救って浄土に往生させると働いて下さっているのが阿弥陀如来です。

日ごろ片づけようと思ったものを片づけて心新たに新年を迎えることも大事なことですが、一番大事な私の後生を浄土参りとして頂き日々新たな気持ちで生きていきたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】たきびの歌と阿弥陀仏2021年11月15日 00:11

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。 

木枯らしが吹く季節となって参りました。

最近は消防法の関係であまり見かけなくなりましたが、以前はたき火をよくしていました。

たきびという童謡もあり子供のころはよく歌っていました。

「あたろうか あたろうよ きたかぜびいぷう ふいている」で有名ですが、木枯らしが吹く中で、焚き火の灯りはとても暖かく、体も温まり心も落ち着きます。

私たちの人生も、木枯らし吹く時があります。そんな時に、焚き火のように暖かくなるようなものが必要となってきます。

浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、最後に依りどころになる所を「畢竟依(ひっきょうえ)」といわれ「畢竟依を帰命せよ(浄土和讃)」と教えられています。「最後に依りどころとなるところに自分自身をまかせなさい」と勧められています。

木枯らし吹くような寒い道では焚き火が依りどころとなるように、私たちは生きているときに色々な人やものを依りどころとしています。

それは、家族であったり、友人であったり、仕事であったり、自分自身の健康であったり色々あります。しかし、突き詰めて究極のよりどころとなるものはなんなのかというとそれは「畢竟依」なのだと言われます。

この「畢竟依」とは、阿弥陀仏のことです。阿弥陀仏は時代にも環境にも、私自身の変化に関わらず私自身に呼びかけ続けてくださる仏さまです。

私も含めて世の中のものは全て変化をしていきます。依りどころとしていたものも変わっていきます。そして依りどころを失った時に、傷つき不安になります。それは焚き火にあたっている時は暖かくても、その場を離れると寒さが体に堪えるようなものです。

しかし、阿弥陀仏は変わらず私を照らして「私をあて力にせよ」と呼びかけられています。焚き火のように、一時的なものではなく、いつまでもどんな時でも依りどころとなる仏さまが阿弥陀仏です。究極にあてになる仏さまをあてたよりにして頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】冬は春に備える季節2021年11月01日 00:11

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

11月と言えば立冬です。暦の上ではもう冬となります。朝晩の冷え込みもだんだん厳しくなってきて、季節となってきます。

稲畑汀子(いなはたていこ)さんの俳句に

いそがせる 心は別に 冬に入る 

が有ります。

だんだんと年の瀬が迫ってきて、まだまだと思っている心とは別に季節は秋から冬に変わってしまいます。

特に今年は、10月に入っても暖かい日が続いた関係で、夏からあっという間に冬になった感覚です。いそいで暖房器具を出した人も多いのではないでしょうか。季節が変わればそれに合わせて冬支度をします。私たちの人生も、1年に譬えると春去り秋去りするとやがて冬の季節を迎えます。

それも1年と同じで、冬が来るのもあっという間のことです。蓮如上人は御文章に以下のように書かれています。

おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。(御文章5帖目16通白骨章)

ここでは「この世の始中終」と言われて人生の始め、中頃、終わり頃を言われています。どれだけ長く生きたとしてもその間と言うのは幻のような一生です。あっという間に過ぎていきます。

確かに冬と言う季節は、木の葉も枯れ、山も雪に覆われてとても静かな季節です。

しかし、その地中には、夏や秋に実った種が、やがて春になって芽吹くのを待っています。その意味では、冬の時代は春を待ってスタートを切るための準備期間と言えます。

そのように、私の命が終わったときに、仏となる種が浄土で花開くのが、往生成仏と言うことです。もちろん種がなければ芽が出ることもなければ花が咲くこともありません。

ではそんな種はどこにあるのでしょうか?私の体をどれだけ探しても仏になるような種は見当たりません。そこで阿弥陀仏は、私に仏になる種を与えてくださいます。その種と言うのが、南無阿弥陀仏です。この南無阿弥陀仏を私がいただいたことを、浄土真宗では信心といいます。この信心一つで浄土に往生し、仏とさせて頂けるのが浄土真宗の救いです。

往生浄土という花が咲くためにも、真宗の教えを聞いて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】本当に実りのある人生とは2021年10月15日 00:10

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の続きです。

実りという字は、「真実」の「実」です。浄土真宗で「真実」とは、真如とも一如ともいわれる本当の私たちの迷いを離れた存在のありのままの姿をいいます。また、真実に入れようとする仏の御心や働きをいいます。

漢字でいえば、「実」の反対は「虚」です。「真」の反対は「仮」なので、「真実」の反対は「虚仮」といわれます。「虚」とは、「実」に対して「むなしい」もので、中身がなにもない状態をいわれます。

穂ばかりあっても、実がないようなもので、本当に中身があるものがないというのが、前回紹介した「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。(歎異抄)」です。

では、なぜ「念仏のみぞまこと」といわれるのでしょうか。

それは、南無阿弥陀仏は、「ほんとうのこと」がない世の中で、それでも「これは私を捨てないのではないか」「これは確かなものではないか」いろいなものを求め、それにすがっている私を呼び覚まして下さる阿弥陀仏の喚び声だからです。

私たちは、自分の抱えている煩悩に振り回されて、実態のない「虚仮」を追い求め、人と争うこともあります。そうして、何も手に入れることなく死んで置いていくのが私の姿です。

その私に、虚仮を離れて真実に引き入れようとして建てられたのが阿弥陀仏の本願です。

阿弥陀仏は、虚仮を虚仮と知らず迷いを続ける私を救うために、浄土を建立されました。その浄土へ私を呼ぶ声が南無阿弥陀仏です。

その南無阿弥陀仏は、私の口から念仏となって出てきて下さっています。口から出てくるお念仏は、そのまま私を喚ぶ声なのです。私を真実へと喚び続ける声が、私を真実へと導いて下さいます。

必ず浄土へと導かれることが、空しい人生を本当の実りあるものに変えて下さいます。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】実りの秋・人生の実りについて2021年10月01日 00:10

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

長い夏もようやく終わり、10月に 入ると秋らしくなってきました。

秋といえば実りの秋です。各地では稲刈りも始まっています。

実りとは、中に果実やタネが詰まっている状態をいいます。稲を収穫したときに穂が立派でも中が空では虚しいものです。稲でいえば、豊作の時は穂の中の多く米がつまっている状態です。反対に空のものが多ければ不作となります。

稲や果実の実りは秋に多くありますが、人生の秋においての実りと言うのは何でしょうか。人生を振り返ってみて、実りのある人生だったと言える人がどれだけあるでしょうか。

実りの多い人生と聞きますと、家族や仕事に恵まれて、 多くのものを手に入れた人生を想像する方が多いと思います。世に言う成功者というものです。

しかし、どれだけどれだけ世間で成功しても、その世間というのは真実がないのだと聖徳太子は、「世間虚仮 唯仏是真」(世間は虚仮なり、ただ仏のみこれ真ぞと)といわれています。

聖徳太子は、推古天皇の摂政として当時の日本のかじ取りをされていましたが、現代よりも激しい権力闘争を勝ち残っていかれた政治家です。そういった権力欲と名誉欲のために、多くの人が命を懸けて争う環境で、またご自分もそうであることをからいわれた言葉だと思います。

苦しみや悲しみの多い人の生は、真実がない虚仮であるといわれ、その空しさを満たして下さる心のより所は仏のみであるといわれています。

同じことを、歎異抄ではこのように書かれています。

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。(歎異抄)

ここでは「ただ念仏のみぞまこと」といわれています。本当に真実まことといえるのは、南無阿弥陀仏だけですから、念仏の教えを聞いて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】「彼岸(浄土)」へはどうやって行く?2021年09月15日 00:09

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

お彼岸にちなんだ、前回の話の続きです。

浄土真宗で「彼岸」といえば、阿弥陀仏の極楽浄土を指しています。また、彼岸が春分と秋分を挟んでの7日間行われるのは、迷いの世界(六道)を離れるという意味で、六道の六に一を足したものともいわれています。

迷いの世界を離れるといっても、私たちの目には浄土という世界は目で見ることはできませんし、Googleの地図で調べても出てきません。阿弥陀経には、西方十万億仏土を過ぎた世界と説かれているので、果たしてそんな遠いところまでどうやって行くのだろうかと考えてみると見当もつきません。

そこで、阿弥陀仏は私の所までやってきて、浄土に来なさいと招いておられます。

そのことを、親鸞聖人はご和讃で以下のように教えられています。

弥陀・観音・大勢至

 大願のふねに乗じてぞ

 生死のうみにうかみつつ

 有情をよばうてのせたまふ(正像末和讃)

私の住むこの此岸のことを、「生死の海」ともいわれています。生死というのは、生まれ変わり死に変わり六道を輪廻していることをいいます。それが果てしなく底も知れないということから「生死海(生死の海)」といわれます。

その生死の海から、彼岸(浄土)へ渡して下さるのが、「大願のふね」です。これは、阿弥陀仏の本願によって成就した南無阿弥陀仏のことをいわれています。

阿弥陀仏、観世音菩薩、勢至菩薩が、南無阿弥陀仏の大きな船に乗って、私のいる生死の海に浮かんで、私を呼び続けて乗せてくださるということをいわれているのがこの和讃です。

どこに浄土があるかも、行き方も分からない私に対して、阿弥陀仏の方からやってきて、私によびかけ、浄土行きの船に乗せてくださるのです。ですから、そのよびかけを受け入れて、船に乗れば必ず浄土に行くことができます。

では、よびかけとはどんな声なのかといえば、私の口から出て下さる南無阿弥陀仏がそれです。私の口で称えているように思いますが、その南無阿弥陀仏は阿弥陀仏が私を浄土(彼岸)に来なさいと呼び続けておられる声なのです。

それを、私が聞き入れて疑い無いことを信心といいます。ただ今、この南無阿弥陀仏を私に向けて「浄土(彼岸)に来れ」との呼び声と聞き入れる人は、その時浄土往生が定まります。

お彼岸をご縁に、浄土に往生する身にさせて頂きたいものです。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】お彼岸の「彼岸」はどこにある?2021年09月01日 00:09

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

今年は、八月半ばに長雨が続きその後猛暑が続いています。「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉も、温暖化の今日には通じなくなってくるかもしれません。

9月は23日秋分の日が秋の彼岸の中日となっています。毎年、春分の日と秋分の日の前後7日間にわたって勤修されるのが彼岸会の法要です。この彼岸の行事は、日本で始まったといわれています。日本の各宗派では「修行がしやすい時期だ」ということでおこなわれています。確かに、真夏や真冬に修行するのは大変そうです。

ただ、浄土真宗では「自らのさとりの為の修行」というものがありませんので、この彼岸会は仏徳讃嘆、仏恩報謝の法要となっております。

この「彼岸」は、もともと梵語の「パーラミター」の意訳「到彼岸」を略したものです。

「パーラミター」は、漢字で「波羅蜜」と音訳されています。言葉の意味としては「完成された最高の状態」「完全な」となるところから、迷いの世界(此岸)からさとりの世界(彼岸)に到達することや、そのための修行を「到彼岸」とか「度」と意訳されるようになりました。

ですから、「お彼岸」の「彼岸」とは、「あの世」のことではありません。迷いを離れたさとりの世界をいいます。浄土真宗では、それは阿弥陀仏のお浄土です。

阿弥陀経に

「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。」

と説かれています。

西の方向に、十万億仏土という途方もない世界を過ぎたところに極楽という世界があり。そこに阿弥陀仏という仏様がまします。そしていま現在説法されています。

その阿弥陀仏の極楽浄土が西にあることから、先人は太陽が真西に沈む日を、彼岸の日と呼ぶようになりました。

この迷いの世界、どこに向かっているのか不透明な状態から、極楽浄土という、さとりの世界へ向けて生きる身になろうというのが、彼岸の法要が務められる理由です。何かと不安が多い昨今ですが、私が参るべきところがあるのだと教えられるのが浄土真宗です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
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