仏教ブログ

【仏教ブログ】本当に実りのある人生とは2021年10月15日 00:10

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の続きです。

実りという字は、「真実」の「実」です。浄土真宗で「真実」とは、真如とも一如ともいわれる本当の私たちの迷いを離れた存在のありのままの姿をいいます。また、真実に入れようとする仏の御心や働きをいいます。

漢字でいえば、「実」の反対は「虚」です。「真」の反対は「仮」なので、「真実」の反対は「虚仮」といわれます。「虚」とは、「実」に対して「むなしい」もので、中身がなにもない状態をいわれます。

穂ばかりあっても、実がないようなもので、本当に中身があるものがないというのが、前回紹介した「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。(歎異抄)」です。

では、なぜ「念仏のみぞまこと」といわれるのでしょうか。

それは、南無阿弥陀仏は、「ほんとうのこと」がない世の中で、それでも「これは私を捨てないのではないか」「これは確かなものではないか」いろいなものを求め、それにすがっている私を呼び覚まして下さる阿弥陀仏の喚び声だからです。

私たちは、自分の抱えている煩悩に振り回されて、実態のない「虚仮」を追い求め、人と争うこともあります。そうして、何も手に入れることなく死んで置いていくのが私の姿です。

その私に、虚仮を離れて真実に引き入れようとして建てられたのが阿弥陀仏の本願です。

阿弥陀仏は、虚仮を虚仮と知らず迷いを続ける私を救うために、浄土を建立されました。その浄土へ私を呼ぶ声が南無阿弥陀仏です。

その南無阿弥陀仏は、私の口から念仏となって出てきて下さっています。口から出てくるお念仏は、そのまま私を喚ぶ声なのです。私を真実へと喚び続ける声が、私を真実へと導いて下さいます。

必ず浄土へと導かれることが、空しい人生を本当の実りあるものに変えて下さいます。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】実りの秋・人生の実りについて2021年10月01日 00:10

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

長い夏もようやく終わり、10月に 入ると秋らしくなってきました。

秋といえば実りの秋です。各地では稲刈りも始まっています。

実りとは、中に果実やタネが詰まっている状態をいいます。稲を収穫したときに穂が立派でも中が空では虚しいものです。稲でいえば、豊作の時は穂の中の多く米がつまっている状態です。反対に空のものが多ければ不作となります。

稲や果実の実りは秋に多くありますが、人生の秋においての実りと言うのは何でしょうか。人生を振り返ってみて、実りのある人生だったと言える人がどれだけあるでしょうか。

実りの多い人生と聞きますと、家族や仕事に恵まれて、 多くのものを手に入れた人生を想像する方が多いと思います。世に言う成功者というものです。

しかし、どれだけどれだけ世間で成功しても、その世間というのは真実がないのだと聖徳太子は、「世間虚仮 唯仏是真」(世間は虚仮なり、ただ仏のみこれ真ぞと)といわれています。

聖徳太子は、推古天皇の摂政として当時の日本のかじ取りをされていましたが、現代よりも激しい権力闘争を勝ち残っていかれた政治家です。そういった権力欲と名誉欲のために、多くの人が命を懸けて争う環境で、またご自分もそうであることをからいわれた言葉だと思います。

苦しみや悲しみの多い人の生は、真実がない虚仮であるといわれ、その空しさを満たして下さる心のより所は仏のみであるといわれています。

同じことを、歎異抄ではこのように書かれています。

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。(歎異抄)

ここでは「ただ念仏のみぞまこと」といわれています。本当に真実まことといえるのは、南無阿弥陀仏だけですから、念仏の教えを聞いて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】「彼岸(浄土)」へはどうやって行く?2021年09月15日 00:09

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

お彼岸にちなんだ、前回の話の続きです。

浄土真宗で「彼岸」といえば、阿弥陀仏の極楽浄土を指しています。また、彼岸が春分と秋分を挟んでの7日間行われるのは、迷いの世界(六道)を離れるという意味で、六道の六に一を足したものともいわれています。

迷いの世界を離れるといっても、私たちの目には浄土という世界は目で見ることはできませんし、Googleの地図で調べても出てきません。阿弥陀経には、西方十万億仏土を過ぎた世界と説かれているので、果たしてそんな遠いところまでどうやって行くのだろうかと考えてみると見当もつきません。

そこで、阿弥陀仏は私の所までやってきて、浄土に来なさいと招いておられます。

そのことを、親鸞聖人はご和讃で以下のように教えられています。

弥陀・観音・大勢至

 大願のふねに乗じてぞ

 生死のうみにうかみつつ

 有情をよばうてのせたまふ(正像末和讃)

私の住むこの此岸のことを、「生死の海」ともいわれています。生死というのは、生まれ変わり死に変わり六道を輪廻していることをいいます。それが果てしなく底も知れないということから「生死海(生死の海)」といわれます。

その生死の海から、彼岸(浄土)へ渡して下さるのが、「大願のふね」です。これは、阿弥陀仏の本願によって成就した南無阿弥陀仏のことをいわれています。

阿弥陀仏、観世音菩薩、勢至菩薩が、南無阿弥陀仏の大きな船に乗って、私のいる生死の海に浮かんで、私を呼び続けて乗せてくださるということをいわれているのがこの和讃です。

どこに浄土があるかも、行き方も分からない私に対して、阿弥陀仏の方からやってきて、私によびかけ、浄土行きの船に乗せてくださるのです。ですから、そのよびかけを受け入れて、船に乗れば必ず浄土に行くことができます。

では、よびかけとはどんな声なのかといえば、私の口から出て下さる南無阿弥陀仏がそれです。私の口で称えているように思いますが、その南無阿弥陀仏は阿弥陀仏が私を浄土(彼岸)に来なさいと呼び続けておられる声なのです。

それを、私が聞き入れて疑い無いことを信心といいます。ただ今、この南無阿弥陀仏を私に向けて「浄土(彼岸)に来れ」との呼び声と聞き入れる人は、その時浄土往生が定まります。

お彼岸をご縁に、浄土に往生する身にさせて頂きたいものです。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】お彼岸の「彼岸」はどこにある?2021年09月01日 00:09

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

今年は、八月半ばに長雨が続きその後猛暑が続いています。「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉も、温暖化の今日には通じなくなってくるかもしれません。

9月は23日秋分の日が秋の彼岸の中日となっています。毎年、春分の日と秋分の日の前後7日間にわたって勤修されるのが彼岸会の法要です。この彼岸の行事は、日本で始まったといわれています。日本の各宗派では「修行がしやすい時期だ」ということでおこなわれています。確かに、真夏や真冬に修行するのは大変そうです。

ただ、浄土真宗では「自らのさとりの為の修行」というものがありませんので、この彼岸会は仏徳讃嘆、仏恩報謝の法要となっております。

この「彼岸」は、もともと梵語の「パーラミター」の意訳「到彼岸」を略したものです。

「パーラミター」は、漢字で「波羅蜜」と音訳されています。言葉の意味としては「完成された最高の状態」「完全な」となるところから、迷いの世界(此岸)からさとりの世界(彼岸)に到達することや、そのための修行を「到彼岸」とか「度」と意訳されるようになりました。

ですから、「お彼岸」の「彼岸」とは、「あの世」のことではありません。迷いを離れたさとりの世界をいいます。浄土真宗では、それは阿弥陀仏のお浄土です。

阿弥陀経に

「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。」

と説かれています。

西の方向に、十万億仏土という途方もない世界を過ぎたところに極楽という世界があり。そこに阿弥陀仏という仏様がまします。そしていま現在説法されています。

その阿弥陀仏の極楽浄土が西にあることから、先人は太陽が真西に沈む日を、彼岸の日と呼ぶようになりました。

この迷いの世界、どこに向かっているのか不透明な状態から、極楽浄土という、さとりの世界へ向けて生きる身になろうというのが、彼岸の法要が務められる理由です。何かと不安が多い昨今ですが、私が参るべきところがあるのだと教えられるのが浄土真宗です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】浄土真宗でお盆の法要を「歓喜会(かんぎえ)」という理由(2)2021年08月15日 00:08

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回に続いて「歓喜会」についての話をします。

一般にお盆の法要を「孟蘭盆会」といいますが、浄土真宗では「歓喜会」ともいいます。

「歓喜」というのは、よろこびのことですが、浄土真宗では何についての喜びかということが決められています。

親鸞聖人は、必ず実現すると定まっている往生を待望して喜ぶことを「歓喜」といわれました。

「歓喜はうべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり。」(一念多念文意)

浄土往生がすでに定まっているときに、まだこの身はこの世にありまだ浄土に往生してはいないのだけれども、先立ってよろこぶこころを歓喜といわれています。

浄土真宗では、浄土往生が定まるのは生きている時です。では、生きている「いつ」浄土往生がさだまるかといえば、「信心さだまるとき往生またさだまるなり」(親鸞聖人御消息)と親鸞聖人は仰っています。

臨終でもなく、死んだ後でもなく、生きている現在に「信心さだまるとき」に私が浄土往生することが定まります。

では「信心がさだまる」とはどういうことかといえば、阿弥陀仏が私を助けるために本願を建ててくださったことと、そのための手だてとして私に喚びかけてくださる南無阿弥陀仏が、阿弥陀仏の「われをたのめ、必ず救う」の喚び声と聞いて疑いないことをいいます。

また、そういうことを聞かせていただくのが浄土真宗の法要の場です。ですから、お盆の法要も、故人を縁として一堂に集まって仏法を聴聞させて頂くためのものです。そして、お互いが浄土往生がさだまる身に救われて、歓喜する集まりとなるのが「歓喜会」といわれる由来です。

特に初盆を迎える方は、この世の無常を感じることが多かったと思いますが、必ず浄土に往生する身となり、ともに一つのところで会えるようになりましょう。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】浄土真宗でお盆の法要を「歓喜会(かんぎえ)」という理由(1)2021年08月01日 00:08

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

8月になり、今年はまた暑い日々が続いております。昨年以上のコロナ感染拡大により、

お盆に実家に帰省する人も前年並に少ないと思います。

例年ですと、お盆になると実家に帰り皆一同に集まってお盆の法要をすると言うところも多いと思います。

このお盆の法要を「盂蘭盆会」といいます。また 浄土真宗では「歓喜会(かんぎえ) 」ともいいます。名前が違うのは、その名前に込められた由来が違っているからです。

まず「孟蘭盆会」の由来について浄土真宗辞典では以下のように書かれています。


うらぼんえ 孟蘭盆会

『盂蘭盆経』に説かれた故事に由来するといわれる法要。『盂蘭盆経』には目連尊者が安居の最終日(旧暦7月15日)に衆僧を供養することによって、餓鬼道に苦しむ亡母を救ったと説かれている。日本では先祖崇拝の風習と結びついて年中行事の一つとなり、一般には先祖供養のための仏教行事とされる。


一般に、お盆になると亡くなった方が死後の世界から家に帰ってくるとか、亡くなった方が死んだ後の世界で苦しむことのないようにという意味で供養を行っています。

そういう意味では、お盆の法要は「亡くなった方のため」にするものと考える人が多いと思います。

それに対して「歓喜会」について、同じく浄土真宗辞典の「孟蘭盆会」の後半に以下のように書かれいます。

浄土真宗では、こうした先祖供養の意はなく、故人を追悼するとともに、無常の理を感じて仏恩を報謝する仏事とされる。

こういう意味で「孟蘭盆会」は行われます。また「歓喜会」とも呼んでいます。

皆が一同に集まって、お互いが元気に仏法を聞いて喜ぶ集まりが歓喜会です。「亡くなった方のため」ではなく、「今生きている私のため」に行われます。

歓喜会については、次の回でもう少し書きます。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】聖徳太子と歎異抄2021年07月15日 00:07

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の記事に続いて、聖徳太子と親鸞聖人について書きます。

親鸞聖人は、聖徳太子について二百首もの和讃を書かれました。また、親鸞聖人の著作ではありませんが、歎異抄の中にも聖徳太子のお言葉を受けて書かれたと言われている箇所がありますので、今回はそこを紹介します。

聖徳太子の憲法十七条に以下の文章があります。

かれ是んずればすなはちわれは非んず、われ是みすればすなはちかれは非んず。われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず。ともにこれ凡夫ならくのみ。是く非しきの理、たれかよく定むべき。(十条)

(現代語)

相手が正しいならば、私は間違いとなり、私が正しいとすれば相手は間違いとなる。しかし、私が必ず聖者であるわけでもなく、相手が必ず愚かでもない。ともにこれ凡夫である。正しい間違いというのは誰が定めることができるであろうか。

これに関連した歎異抄の文章は以下になります。

聖人の仰せには、善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり(後序)

(現代語)

親鸞聖人が仰っていたことには、「何が善なのか悪なのか、この私には全く分からない」

この世の中の争いというのは、正しい人と間違った人が争っているのではなく、正しい人と正しい人がお互いに「こちらが正しく、相手が間違いだ」と主調することで争っています。しかも、「自分が正しい」という点については全く疑う余地もありません。

憲法十七条に

一にいはく、和らかなるをもつて貴しとなし

とありますが、そうなるには「自分は絶対に正しい」という前提をお互いに捨ててみないとできないことです。

人間関係だけでなく、私が常日ごろ考えているものに「絶対正しい」というものはありません。それを正しい前提で過ごしていると、思わぬ事態が起きた時に「こんなはずではなかった」と驚くことになります。

自分の考えによるのではなく、仏様の教えられることに従って行きましょうと教えられるのが仏教です。

上記の歎異抄には、その後に

ただ念仏のみぞまことにておはします

と書かれています。

念仏の教えに従って行きましょうと教えられるのが浄土真宗です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】聖徳太子と親鸞聖人2021年07月01日 00:07

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

今年(2021年)は、聖徳太子1400回忌の年です。浄土真宗本願寺派でも、今年4月に法要が行われました。

聖徳太子(574-622)と親鸞聖人がどんなつながりがあるのかと不思議に思う方もあると思います。実は、親鸞聖人は大変聖徳太子のことを尊敬されており、200首の和讃を作られています。

聖徳太子は、日本に本格的に仏教を導入された方で、法隆寺、四天王寺などを建立され、「法華経」「勝鬘経」「維摩経」の義疏(三経義疏)(解説書)を作られたと言われています。また、十七条憲法でも有名な方です。

親鸞聖人は、この聖徳太子がおられなかったら私はこの日本で仏教を学ぶことはできなかったし、阿弥陀仏に救われることもなかったとされています。和讃の中では、聖徳太子のことを「観音菩薩の化身」「日本のお釈迦さま」とまで言われています。

救世観音大菩薩

 聖徳皇と示現して

 多々のごとくすてずして

 阿摩のごとくにそひたまふ(皇太子聖徳奉讃)

(現代語)

救世観音大菩薩は、この日本に聖徳太子となってこの世に現れて、父のように私を捨てないで、母のように私に付き添って下さるのです。

和国の教主聖徳皇

 広大恩徳謝しがたし

 一心に帰命したてまつり

 奉讃不退ならしめよ(皇太子聖徳奉讃)

(現代語)

日本の教主(お釈迦さま)である聖徳太子の広大なご恩は感謝しつくすことができません。二心なく太子のみ言葉に従って、阿弥陀如来に帰依し奉り、本願他力を信じ、怠ることなくずっとほめたたえ奉りましょう。

今日、日本に仏教があるのは当たり前のように感じますが、元々日本には仏教はなく、聖徳太子の時代は「外国の宗教」でした。聖徳太子の様々な尽力によって日本に本格的に仏教が伝わるようになりました。

遠く離れたインドで生まれた仏教が、この日本に伝わったのも聖徳太子のお陰であったということを親鸞聖人は大変感謝をしておられます。浄土真宗だけではなく、広く日本仏教の大恩人にあたる方が聖徳太子です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】尺取り虫と蚕と私2021年06月15日 00:06

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

6月は梅雨の季節で、湿気も気温も高くなり虫も増えてきます。

今日は、虫を通して人間の姿を教えられた話について書きます。

その虫とは、尺取り虫と蚕です。どちらも以前はよく目にしたと言う人も多くありますが、近年は中々目にする機会が減ってきました。

それが以下の文章です。これは、中国の曇鸞大師が書かれたものです。

仏本(ぶつもと)この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭[蚕衣なり]の自縛するがごとし。(浄土論註)

阿弥陀仏が、法蔵菩薩という菩薩であったときに、私たちの姿をご覧になってなんとか救ってやりたいという慈悲の心から本願を建てられました。その時に、私の姿をご覧になったときに、ウソ偽りの姿、同じことを繰り返している姿、そしてそれに終わりがない姿を知られました。それは例えると、尺取り虫(蚇蠖)が同じところをぐるぐる回っているようなものであり、蚕がその繭(蚕繭)によって自分を縛っているようなものだと言われています。

このように私の姿を、尺取り虫と蚕に例えておられます。

尺取り虫が、同じところをいつまでも回り続ける姿を通して、自分の力ではいつまでも迷いを離れる事ができない私の姿を現されています。

また、蚕が自分の口から吐いた糸によって繭を作りますが、その繭によって自分を縛り人間の手にかかれば茹でられても逃げることができません。そこから、自らの煩悩によって、自分が苦しみ迷う世界を生み出している私の姿を例えられています。

ここで尺取り虫が自分が同じところをなぜ回っているかを知らないように、私自身も迷いの中にいるということは分からない場合も多いです。しかし、分かったとしてもどうしようもありません。そこで私の力ではどうにも迷いの世界を離れることができないことを憐れに思われて、法蔵菩薩は私を救うという本願を建てられました。そして阿弥陀仏という

仏になられて現在私を救おうと働きかけられています。

その働きかけが、南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏を阿弥陀仏のお働きと称え聞いて疑い無い人は必ず迷いを離れて浄土に往生するというのが浄土真宗の救いです。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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【仏教ブログ】寺にアジサイが多い理由2021年06月01日 00:06

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

今年は梅雨の入りも早く、雨が多く続いています。この時期に咲く花といえばアジサイが有名です。

アジサイといえばアジサイ寺というのもあるほどよくお寺で見かけます。では、なぜアジサイを植えたお寺が多いのでしょうか?

アジサイが咲く梅雨の季節は、季節の変わり目で亡くなる人も多くありました。その際に、お仏花として簡単に手に入れることができました。また、アジサイの特徴の一つとして、手間をかけずとも育つというのがあります。勝手に育つとともに、手入れをしなくても寺の中が荒れるということもありません。

また「四葩(よひら・花弁が4枚ある)」の別名をもつアジサイが、「死(4)」を連想することも理由のひとつにあったといわれています。

いろもさまざまに変わるため、花言葉に「無常」「移り気」があります。

正岡子規の俳句に

「紫陽花や きのふの誠 けふの嘘」

というのがあります。

諸行無常と仏教では言いますが、昨日まことだと思っていたことが、今日はウソになってしまうことを紫陽花の花に例えています。

今日は大丈夫だと思っていたことも、次の日にはそうでなくなってしまうものの最たるものが人の命であり健康です。昨今のコロナ禍ではその例はたくさん見聞きしてきました。

浄土真宗では、阿弥陀仏にただ今救われると必ず浄土に往生する身に定まると教えられています。浄土と聞くと、何かおとぎ話やウソのように思う方もありますが、そんなきのうのウソが今日はまことと言える救いがあります。

あらゆるものが変わる世の中で、これだけは変わらないというのが浄土に往生させて仏にしてみせるという阿弥陀仏の救いです。

アジサイの花を見た時に思い出して下さい。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
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   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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