【仏教ブログ】人生の卒業、その先について

光顔寺明照廟堂/水月精舎(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

3月は卒業や転勤、退職など別れの多い月です。別れが辛いのは、それまで過ごしてきた人や環境に対する愛着と、これから先の環境に対する不安から来るものです。そういった愛着を、仏教では煩悩といいます。

煩悩とは、梵語クレーシャの意訳で、惑とも訳されます。心身を煩わせ、悩ませる精神作用の総称をいいます。この煩悩による執着によって別れはつらく感じます。

それは、阿弥陀仏の浄土へ往生する身になってもこの世と離れるのは辛いものだと歎異抄に親鸞聖人のお言葉として書き残されています。

久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。(歎異抄9条)

(現代語版)

果てしなく遠い昔からこれまで生まれ変わり死に変わりし続けて来た、苦悩に満ちたこの迷いの世界は捨てがたく、まだ生まれたことのない安らかな世界に心ひかれないのは、まことに煩悩が盛んだからなのです。

この世は苦しみの多いところです。こんな苦しい世の中から早く出ていきたいと思う気持ちもある一方で、ずっと苦しんできた世界だからこそ離れがたいというのもまた人間の煩悩のあらわれです。

学校の卒業式は、日にちが決まっていますのであと何日で卒業、今日で卒業となると名残惜しい気持ちが芽生えてきます。人間における卒業式は、その人の臨終です。いつまでも生きていられる人間はいません。自分の年齢を数えてあと何年生きられるのだろうかと考え始めると、急に名残惜しくなってきます。

それでも学校の卒業式に待ったをかけられないように、人生の卒業式にも待ったをかけることはできません。先ほどの歎異抄の続きは、このように書かれています。

なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。(同上)

(現代語版)

どれほど名残惜しいと思っても、この世の縁が尽き、どうすることもできないで命を終えるとき、浄土に往生させていただくのです。

どれほど離れがたいと思っていても、この世から離れる時は必ずやってきます。それは人間の思いに関係なくやってきます。その時に「かの土へはまいるべきなり」と言うことができるでしょうか?

この人生を卒業をしたけれども往く当てもないのでは、大変心もとないことです。「私は浄土に往生させていただきます」と言える身になって頂きたいと思います。


※下の画像は生成AIが考えた「高校卒業と大学進学が決まり、地元を離れる不安の中、阿弥陀如来にお参りしている学生」です。

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Profile

1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。

脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。

現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。

   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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