【仏教ブログ】読書の秋「まづ物をよめ」との蓮如上人のお言葉 2
光顔寺 納骨堂のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。
前回の記事の続きです。
読書の秋という話から、浄土真宗では門徒の方が一番読んでいる本は勤行でのお聖教だと書きました。また、蓮如上人御一代記聞書を紹介し、お聖教をまずは繰り返しよむ事について書きました。
一 蓮如上人、幼少なるものには、まづ物をよめと仰せられ候ふ。またその後は、いかによむとも復せずは詮あるべからざるよし仰せられ候ふ。(御一代記聞書215)
しかし、いくら繰り返し読んだとしても正信偈は漢字ばかりで書かれていますし、意味が分からないまま読んでも意味がないのではないかと思われる人も多いと思います。
それに対して、上記の御一代記聞書は続けてこのように書かれています。
ちと物に心もつき候へば、いかに物をよみ声をよくよみしりたるとも、義理をわきまへてこそと仰せられ候ふ。その後は、いかに文釈を覚えたりとも、信がなくはいたづらごとよと仰せられ候ふ。(同)
(現代語訳)そして、成長して少し物事がわかるようになると、「どれほどお聖教を読み、漢字の音などをよく学んだとしても、書かれている意味がわからなければ、本当に読んだことにはならない」と仰せになりました。さらに、その後は、「お聖教の文やその解釈をどれほど覚えたとしても、信心がなければ何の意味もない」と仰せになりました。
一般に読書とは、娯楽小説を読むエンターテイメントとしてのものもありますし、ビジネス書や社会問題を扱った知識習得のためのものもあります。また、学生が学問をするために読むものもあります。いろいろと目的をもって本を読む事だと思います。
小説などと異なり、お聖教は現代の私たちからすれば、たしかに難しい言葉や表現で書かれています。しかし、文字に書かれたと言う事は、私に伝えたい事があったからです。
特に浄土真宗のお聖教に書かれている事は、「本願を信じ念仏を申さば仏になる」これ以外にないと歎異鈔には書かれています。これは何か為になる話や、生きるヒントが書かれているのではないということです。
また、仏教の学者になるために読むのでもないということです。「信がなくはいたづらごとよ」と御一代記聞書にあるように、南無阿弥陀仏の信心を示して、私に信心を勧められたものです。そして「本願を信じ念仏を申さば仏になる」とあるように、阿弥陀仏の本願を信じ念仏申す身となり、浄土往生をさせていただき仏となることを勧められ、実際にその身に救われると教えられます。その教えを文字という形で残されたものが、勤行で拝読するお聖教です。
今まで読んだ事がない方は、そういう教えが書かれたものだと知った上で一度読んでみてください。
―――――――――――――――――――――――――――
宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)
Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。