【仏教ブログ】お米より手間のかかったご本願 2

光顔寺明照廟堂/水月精舎(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の記事の続きです。

聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり(歎異抄後序)

歎異抄に、阿弥陀仏が本願を建てられるのに五劫という長い時間がかかったことを親鸞聖人はおっしゃっています。阿弥陀仏の本願は、すべての人を救う本願なのですが、親鸞聖人は私一人のためであったと言われています。

その理由を、続けてこのように言われます。

されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ(同)

それは、五劫思惟しなければ助けられない程の重い罪を抱えている身であったからです。そんな私を助けようと思い立って下さった本願のかたじけないことであると言われています。

全ての人を助けるといっても、善人もいれば悪人もいます。悪人の中でも罪の軽い人もいれば重い人もいます。善人ばかりならば、五劫も思惟する必要はなかったかもしれません。

いわゆる度し難いものを助けるためには、それだけの苦労があったわけです。

なぜなら、どれだけ素晴らしい浄土を建てられても「親孝行したら浄土に往生できる」としたならば、親不孝な人は往くことができません。「お経を読んだら浄土に往ける」としたならば、文字が読めない人は浄土に往くことができません。また、その人にとって難しいことが条件となると、そもそも浄土に往きたいという気持ちもなくなってしまいます。

そこで五劫思惟の結果として、阿弥陀仏は南無阿弥陀仏と称えるものを浄土に生まれさせるという本願を建てられました。

それを歎異抄の別の箇所では、そのことをこう書かれています。

本願を信じ念仏を申さば仏に成る(歎異抄第12条)

南無阿弥陀仏と称えるものを浄土に生まれさせるという本願を信じて念仏するものは仏になると言われています。

このような本願にされたのは、自分のような度し難い人間のために阿弥陀仏が五劫思惟された結果なのだと親鸞聖人はかたじけないといわれています。

新米の季節ですが、お米を口にするときに、農家の方のご苦労を思いなさいと言われたものです。

親鸞聖人は、南無阿弥陀仏と口に称名するたびに、阿弥陀仏の五劫思惟のご苦労を思われたことだと思います。私もそのようにお念仏申したいと思います。


下の画像は生成AIが考えた「阿弥陀仏の五劫思惟のご苦労を思われ、南無阿弥陀仏と口に称える親鸞聖人」です。

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Profile

1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。

脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。

現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。

   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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