【仏教ブログ】オリンピックの金メダルと浄土真宗の信心の違いについて2
光顔寺明照廟堂/水月精舎(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。
前回の記事の続きです。
パリオリンピックで日本選手のメダル獲得数が連日報道されていました。金、銀、銅のメダルは、上位3人までにしか与えられません。また、オリンピックに出場するには、国内選考を勝ち残った人だけです。そのように、オリンピックのメダルは限られた、才能と努力の人にだけ与えられるものです。
それに対して、浄土真宗の信心は年齢や、その人の善悪とは無関係に与えられるものです。
前回の記事では、そのことを
弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。(歎異抄第一条)
という歎異抄のお言葉から紹介しました。
浄土真宗の救いは、「老少・善悪」に関係がありません。仏教の言葉で言えば、「廃悪修善」と救いは関係がないと言われます。「廃悪修善」とは、「悪を廃して、善を修める」と読みます。いわゆる煩悩を抑えて、修行に打ち込むことによってさとりをえようという仏教を言います。いわゆる出家仏教です。
それに対して、浄土真宗は在家仏教と言われます。いわゆる、家を出て山に籠もるような仏教ではありません。在家の人が、その生活をするままで救われる仏教です。
しかし、そうすると「今の生活を続けたままで救われるのか」「やはり何かこの世の繋がりを断ち切るようなことがなければ救われるということはないのではないか」と思われる人もあると思います。親鸞聖人は、そのような「廃悪修善」ではなく、阿弥陀仏の救いを信じて受け入れるか、それとも自ら計らって撥ね付けるかによって救いが決まる「信疑決判」という、全く新しい仏教を打ち立てられました。
そのことを、歎異抄では
本願を信じ念仏を申さば仏に成る(歎異抄第12条)
と書かれています。
阿弥陀仏の本願は、「念仏するものを助ける」という本願です。その本願を信じ、念仏するものは仏にするという阿弥陀仏の救いです。その本願におまかせするか否かによって救われるか否かが決まります。
どれだけ善に励んだか、悪を止めたかは関係ありません。男女も、頭の善し悪しも関係ありません。
いつでもどこでも誰にでも、その人の属性に関係なく人数制限もなく救って下さいます。
※下の画像は生成AIが考えた「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」です。
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Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。