【仏教ブログ】歳末と年末の違いから、結末を考える

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の記事で「歳末の礼」について書きました。

そこで、12月のことを「歳末」といったり「年末」ともいいますが、何が違うのでしょうか?

歳末は「数え年」の考え方からきています。それに対して年末は、カレンダーでの年の変わりをあらわします。

「数え年」のころは、年が変わると全員が歳をとりました。何月生まれという事も関係なく、1月1日を迎えるとみんな歳を取りました。そう考えると、そのころの歳末は、現在の年末とはまた違った感慨があったのだと思います。

現在の誕生日でも、30歳になるとき、60歳になるときなど節目の年を迎える時はいろいろと感慨深いものがあります。筆者は30歳になったときに、「もっと大人になっていると思ったのにこんなものでいいのだろうか」と考えました。しかし、60歳や80歳となるとどうしても人生の結末を考えます。

数え年のころの方は、歳末には誕生日と年末が同時に来た感覚だったのだろうと思います。だからこそ、無事に年を越せたなら「明けましておめでとうございます」という言葉も出てきたのでしょう。その意味では、一年という単位を、人生の節目として、またある程度の年齢になれば人生の結末に向けてのカウントダウンと感じたのではないでしょうか。

年末になると、今年の流行語や十大ニュースなどの記事が目に入ります。過去を振り返ることも大事ですが、何が本当にたよりになるものかに目を向ける時です。

親鸞聖人のご和讃に、以下のものがあります。

清浄光明ならびなし

 遇斯光のゆゑなれば

 一切の業繋ものぞこりぬ

 畢竟依を帰命せよ(浄土和讃)

「畢竟依」というのは、阿弥陀仏の別名の一つです。私たちの究極の依りどころになる仏という意味です。

阿弥陀仏は、一切の迷いの世界につなぎ止める業の働きを除いてくださるので、阿弥陀仏にうちまかせなさいと言われています。

本当に依りどころとなる仏様にあうことで、気持ちも新たに年を越せるのではないでしょうか。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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