【仏教ブログ】聖徳太子と歎異抄

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の記事に続いて、聖徳太子と親鸞聖人について書きます。

親鸞聖人は、聖徳太子について二百首もの和讃を書かれました。また、親鸞聖人の著作ではありませんが、歎異抄の中にも聖徳太子のお言葉を受けて書かれたと言われている箇所がありますので、今回はそこを紹介します。

聖徳太子の憲法十七条に以下の文章があります。

かれ是んずればすなはちわれは非んず、われ是みすればすなはちかれは非んず。われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず。ともにこれ凡夫ならくのみ。是く非しきの理、たれかよく定むべき。(十条)

(現代語)

相手が正しいならば、私は間違いとなり、私が正しいとすれば相手は間違いとなる。しかし、私が必ず聖者であるわけでもなく、相手が必ず愚かでもない。ともにこれ凡夫である。正しい間違いというのは誰が定めることができるであろうか。

これに関連した歎異抄の文章は以下になります。

聖人の仰せには、善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり(後序)

(現代語)

親鸞聖人が仰っていたことには、「何が善なのか悪なのか、この私には全く分からない」

この世の中の争いというのは、正しい人と間違った人が争っているのではなく、正しい人と正しい人がお互いに「こちらが正しく、相手が間違いだ」と主調することで争っています。しかも、「自分が正しい」という点については全く疑う余地もありません。

憲法十七条に

一にいはく、和らかなるをもつて貴しとなし

とありますが、そうなるには「自分は絶対に正しい」という前提をお互いに捨ててみないとできないことです。

人間関係だけでなく、私が常日ごろ考えているものに「絶対正しい」というものはありません。それを正しい前提で過ごしていると、思わぬ事態が起きた時に「こんなはずではなかった」と驚くことになります。

自分の考えによるのではなく、仏様の教えられることに従って行きましょうと教えられるのが仏教です。

上記の歎異抄には、その後に

ただ念仏のみぞまことにておはします

と書かれています。

念仏の教えに従って行きましょうと教えられるのが浄土真宗です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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