【仏教ブログ】浄土真宗でお盆の法要を「歓喜会(かんぎえ)」という理由(2)
光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。
前回に続いて「歓喜会」についての話をします。
一般にお盆の法要を「孟蘭盆会」といいますが、浄土真宗では「歓喜会」ともいいます。
「歓喜」というのは、よろこびのことですが、浄土真宗では何についての喜びかということが決められています。
親鸞聖人は、必ず実現すると定まっている往生を待望して喜ぶことを「歓喜」といわれました。
「歓喜はうべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり。」(一念多念文意)
浄土往生がすでに定まっているときに、まだこの身はこの世にありまだ浄土に往生してはいないのだけれども、先立ってよろこぶこころを歓喜といわれています。
浄土真宗では、浄土往生が定まるのは生きている時です。では、生きている「いつ」浄土往生がさだまるかといえば、「信心さだまるとき往生またさだまるなり」(親鸞聖人御消息)と親鸞聖人は仰っています。
臨終でもなく、死んだ後でもなく、生きている現在に「信心さだまるとき」に私が浄土往生することが定まります。
では「信心がさだまる」とはどういうことかといえば、阿弥陀仏が私を助けるために本願を建ててくださったことと、そのための手だてとして私に喚びかけてくださる南無阿弥陀仏が、阿弥陀仏の「われをたのめ、必ず救う」の喚び声と聞いて疑いないことをいいます。
また、そういうことを聞かせていただくのが浄土真宗の法要の場です。ですから、お盆の法要も、故人を縁として一堂に集まって仏法を聴聞させて頂くためのものです。そして、お互いが浄土往生がさだまる身に救われて、歓喜する集まりとなるのが「歓喜会」といわれる由来です。
特に初盆を迎える方は、この世の無常を感じることが多かったと思いますが、必ず浄土に往生する身となり、ともに一つのところで会えるようになりましょう。
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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)
Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。