【仏教ブログ】彼岸はがんばって行くところではありません
光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。
3月はお彼岸です。浄土真宗でも彼岸会という法要が行われます。
この「彼岸」ですが、なんとなく「死んだあとの世界」というイメージを持っている方も多くおられます。
しかし、彼岸の本来の意味は、さとりの世界のことをいいます。
浄土真宗辞典には、以下のように書かれています。
ひがん 彼岸
かの岸の意。生死の迷いを超えたさとりの世界のこと。迷いの世界である此岸に対する語。
では、浄土真宗ではこの「彼岸」といえば、どこに当たるのかといえば阿弥陀仏の浄土のことです。また、阿弥陀仏の浄土は、阿弥陀経に西方にあると示されているので、彼岸のことを西岸ともいわれます。これは、善導大師の書かれた二河白道の譬えに出で来る表現です。
リンク—重要文化財 にがびゃくどうず 二河白道図 – 奈良国立博物館
この二河白道の譬えは、親鸞聖人も大変大事にされて、主著である教行証文類にも引文されています。
そこでは、彼岸(西岸)というのは、私が頑張ってなんとか到達するようなところではなく、彼岸から呼ばれているのだと教えられています。
以下は、此岸にいる私に向かって西岸から呼びかけられているという部分です。
また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と(教行証文類・信文類)
ここで「西の岸の上に人ありて」というのは、浄土におられる阿弥陀仏のことです。その阿弥陀仏は、だまって浄土で待っている仏様ではありません。阿弥陀仏の方から私に向かって招いて喚び続けられています。
それが「人ありて喚ばひていはく」ということです。「喚ばひて」というのは喚び続けているという意味です。
どのように喚ばれているのかといえは「ただちに来れ」と喚ばれています。これは、ただ今助けるという事です。生きている私に向かって、ただ今救うと呼びかけられているということです。
これは「さとりの世界」はそのまま私に向かって「ただちに来れ」と呼びつづけておられるということです。それに加えて「われよくなんぢを護らん(どんなことがあっても護るから心配はいらない)」と言われています。
彼岸とは、阿弥陀仏から呼ばれてるところです。その喚び声が南無阿弥陀仏ですから、どうかみなさん南無阿弥陀仏と「ただちに来れ」と聞いて下さい。
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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)
Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。