【仏教ブログ】今しら知らない私と仏様が知られた私
光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。
前回のブログで、蟪蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや(曇鸞大師・浄土論註)について夏しかしらないセミは夏そのものを知らないように、今すら知らない私は、明日を知る事ができないことを書きました。
そこで、阿弥陀仏は私をどのように見ておられるのかについて、同じく曇鸞大師の浄土論註から紹介します。
三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭[蚕衣なり]の自縛するがごとし。あはれなるかな衆生、この三界に締[結びて解けず]られて、顛倒・不浄なり。
三界というのは、私のいる迷いの世界のことです。阿弥陀仏が、この世界をご覧になると、真実がなく、同じ事を繰り返し、その極まりがない相をしています。それは、尺取り虫が同じところをぐるぐると回るようなものであり、蚕が繭をつくる際、自分の口から吐いた糸で自分を縛っているようなものです。阿弥陀仏は、その私たちが、この迷いの世界に結びつけられて出る事ができず、逆さまで清らかでないことを憐れに思われました。
仏様からご覧になるとこのような相ですが、私たちにも思い当たる事はいろんな場面であります。
「変化の激しい時代」と言われて久しいですが、時代に関わらず私たちが生きている世界はいつも変わり通しで、「これでもう安心」ということがありません。そこからなんとか変わろうとしても、同じ事を繰り返しているのが実感です。
しかし、そんな相だと自分のことを知ったとしても、私たちにはそこから出る道も、出るにしてもどこに出たらよいかも知りません。
そこで、先の御言葉には続いてこのように書かれています。
衆生を不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処に置きて、畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。
阿弥陀仏は、私を虚偽ではない所、同じ事を繰り返さないような所、際限なく続くようなことがない所に置いて、安楽で清らかな極まりのところに生まれさせたいと思われました。
今も未来も分からない私をご覧になって、私の最後落ち着くべき浄土を作られて、そこに往生させるというのが阿弥陀仏の本願です。その願いを聞いて救われるのが、浄土真宗での救いです。
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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)
Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺 信徒。
光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。