【仏教ブログ】紅葉の歌と御文章

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

すっかり秋らしくなり、紅葉の季節となってきました。

紅葉狩りという言葉もあるように、紅葉がきれいに見えるところは観光スポットとして多くの人がやってきます。

春の花見と秋の紅葉狩りに共通しているのは、どちらも散るという点です。この散っていく姿というのが日本人の情緒に訴え人を引きつけるのではないでしょうか。

そこで、紅葉を詠んだ歌というのは、どこか寂しさがテーマとなっています。

小倉百人一首にも収録されている、以下の歌は有名です。

奥山に紅葉ふみわけ鳴(なく)鹿のこえ聞くときぞ秋はかなしき(猿丸太夫)

現代の人が多く集まる紅葉狩りの賑やかさとは違い、山奥に一人で紅葉を踏み分けて歩いていると、どこかで鹿の鳴き声がします。それを聞くと秋の物悲しさがいよいよ深まって感じられるという歌です。

とても寂しい情景が見える表現で「秋はかなしき」と結んでいます。人生の孤独と、やがて散っている自分の姿を紅葉に重ねているのが伝わってきます。

それに対して、人生の秋を迎えてどのように思うべきかについて、蓮如上人はこのように書かれています。

そもそも人間界の老少不定のことをおもふにつけても、いかなる病をうけてか死せんや。かかる世のなかの風情なれば、いかにも一日も片時もいそぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定して、そののち人間のありさまにまかせて、世を過すべきこと肝要なりとみなみなこころうべし。(御文章5帖目13通)

人間世界は、年の順番に死ぬかどうかは決まっていないので、いつどんな病気になって死ぬか分かりません。こんな世の中であるから、一日でもすこしの時間でも急いで信心決定して、この度は往生極楽が定まって、その後はその人その人の境界で世を過ごす事が大事であると言われています。

紅葉を見て「秋はかなしき」となるのは、やがて行く先に何の意味も見いだせないからではないでしょうか。生きることも有り難く、死ぬ事もまた浄土往生のご縁と有り難く同じように受け入れる目を開かせていただくのが浄土真宗の救いです。

かなしき秋から、実りの秋となるように浄土真宗の救いを聞いて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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