【仏教ブログ】盂蘭盆の語源は「さかさま」。何が「さかさま」?

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の記事の続きです。お盆の語源となった「盂蘭盆(ウランバーナ)」は、「さかさまにつり下げられる」の意味だと書きました。

そこで、私も「さかさま」であると仏教では教えられます。それを「倒見」とか「顛倒」といわれます。道理や真如に背いていることをいいます。

それを具体的に言われたものが「四顛倒(してんどう)」です。

この世の事は「無常」であり「苦」であり「無我」であり「不浄」なのですが、それに対して私は「常」であり「楽」であり「我」であり「浄」であると思い誤っています。

最初の「無常」について書きます。

「諸行無常」ともいいますが、あらゆるものは因縁によって成り立っているので常に変化してこれ以上変わらないという状態に落ち着く事がありません。

この夏の暑さも諸行無常の一つですから、ずっと暑いということはなく、やがて秋がきて冬となります。昨今のコロナ禍も、先は見えないとはいいながらもいつかは収束していくことでしょう。

しかし、頭で分かってはいても「いつまで続くのか」と考えてしまうのが「常」という考えです。ただ、夏の暑さや、流行の病気ならばこれまで何度も体験をしてきたので「無常」であることについてあまり疑問を持たない人も多いと思います。そのため、暑さやコロナ禍が収まって驚く人はいないと思います。

しかし、自分の命や、近しい人の命が終わる時に人は驚き、悲しみます。それは、人は永遠に生きられないとは知っていながらも、今日死ぬとは思っていないからです。もっといえば「今日だけは死なない」を続けると、「無常」ではなく「常」なるものが人の命と「さかさま」に考えているのが私です。

その他についても同様に、本来ある「苦」を忘れ、これが私であるとか私のものであるというものはない「無我」を忘れ、「不浄」であることに目をそらして生きてる私たちは「さかさま」に世の中を見ています。

その私に「無常」を知らせて「さかさま」の私を教えて下さった故人を縁として、仏教を聞かせて頂くご縁が浄土真宗のお盆法要を勤める理由です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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