【仏教ブログ】彼岸は遠い?遠くない?

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

9月も後半となると、お彼岸の時期です。各地で、お彼岸の法要が開かれたりします。

浄土真宗で「彼岸」というのは、阿弥陀仏の浄土のことをいいます。「彼岸」に対する言葉は「此岸」といって、「こちらの岸」ということで私が今生きているこの世界のことをいいます。

しかし、阿弥陀仏の浄土を「彼の岸」、私のいる世界を「此の岸」と書くと、なんだか随分遠いところのように思います。浄土にまします阿弥陀仏も「あちら」の方であって「こちら」とは隔てがあるように感じてしまいます。

ところが、阿弥陀仏という仏様は、そんな遠い所におられる仏様ではないと親鸞聖人は仰っています。

(115)

子の母をおもふがごとくにて

 衆生仏を憶すれば

 現前当来とほからず

 如来を拝見うたがはず(浄土和讃)

阿弥陀仏は、私を一人子のように見てくださっています。ですから、私が阿弥陀仏の本願を聞いて疑いなく念仏するようになれば、子供が母を思うように、現在目の前で、または将来浄土に往生して阿弥陀仏を拝見することは疑い無いと言われています。

阿弥陀仏は、大慈悲をもって私の苦しみを抜いてやりたい、楽を与えてやりたいということで本願を建てられました。その本願によって建立されたのが、浄土です。

その浄土に招き喚ばれる声が南無阿弥陀仏となって、私に呼びかけられています。その南無阿弥陀仏が、私を喚ばれる声であると聞いて疑い無いことを信心といいます。その上では、いつでもどこでも南無阿弥陀仏と申す時には、常に阿弥陀仏のお働きの中にあることを聞いていることになります。

そのように聞いていると、阿弥陀仏も浄土も決して遠いものではなく、この私と常にともにあるということを「現前当来とほからず」と言われました。

阿弥陀仏や浄土を「あちらの方」と隔てを作らずに、すでに私に呼びかけられる南無阿弥陀仏を聞いて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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