【仏教ブログ】無明の酒に酔った人へ「しらふで生きる」(町田康著)より
光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。
新型コロナウイルスによる自粛も解禁され、観光地にも人が戻ってきています。徐々に以前のような生活に戻りつつあります。
これまでの自粛要請期間で何度か報道されていたのが、在宅時間が長くなることによる飲酒の増加で健康を損なう人が出てくるのではないかというものでした。
※参照
【新型コロナ】知らぬ間に、飲酒量が増えていませんか? 専門家「緊張状態が続く今、危ない」(ハフポスト日本版)
この度のコロナ禍で、在宅ワークに変わったり、あるいは仕事が減ったり失ったりでそのストレスからいつも以上にアルコールに手が伸びるのも気持ちとしてはよく分かります。
酒を飲むことでストレス解消になる人もあります。しかし、それで本当にストレスが解消しているのでしょうか?
そうではないということを、「しらふで生きる 大酒飲みの決断(町田康著)」から紹介します。
著者の町田康氏は、芥川賞作家で30年間一日も欠かさずに酒を飲み続け、さまざまなトラブルを起こしてきました。それがある日酒を辞めようと思いそれ以来4年間断酒を続けています。その経緯を書いた本がこの「しらふで生きる 大酒飲みの決断」です。
そこから一部引用します。
酒をやめたと言いしばしば酒徒から受ける問いに「それで人生寂しくないですか?」というのがあるがそんなことはない。なぜなら、人生とはもともと寂しいものであるからである。(酒を飲んでも飲まなくても人生は寂しい より 「しらふで生きる」)
酒を飲む人は、酒を飲まないと人生は寂しいと考えます。しかし、この考え方は酒飲みに限らずあらゆることに当てはまります。それは「仕事」であったり「家族」であったり「趣味」であったりします。それらがないと、「人生寂しい」と私たちは考えてそれらに熱中します。
しかし、この町田康氏が言うように「人生はもともと寂しいもの」なのです。いろいろなものをもってきて、寂しい人生を楽しい人生にしようとしても、それは暗い部屋にロウソクをともしたようなもので、部屋そのものが暗いことに変わりはありません。
それでも、いろいろなものによってその人生の寂しさを紛らわせているのが私ではないでしょうか?
親鸞聖人の書かれたお手紙にはこのようなことが書かれています。
もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。(親鸞聖人御消息)
そのことを「無明の酒に酔ひ」と言われています。多くの人は、いわば酒に酔っているようなものだということです。何が大事なのか判断が出来なくなっています。
そんな無明の酒に酔っている私が、阿弥陀仏の本願を聞いてより、その酔いも醒め南無阿弥陀仏と申す身になったと言われています。
人生は寂しいものですが、無明の酒では解決できません。南無阿弥陀仏を聞いて頂きたいと思います。
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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)
Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。