【仏教ブログ】中秋の名月を見て法然聖人の和歌を思い出す

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

猛暑が続いた8月も終わり、9月は中秋の名月が見られる時です。今年のコロナ禍で、春の花見もできなかったという人も多いでしょうが、月見は家からでも出来ますので月を眺めるものいいと思います。

仏教では月や月の光を何かに喩えられることがしばしばあります。

法然聖人の詠まれた歌に以下のものがあります。

月かげのいたらぬさとはなけれども 

  ながむるひとのこころにぞすむ

ここで「月かげ」といわれているのは「月の光」のことです。

月の光が届かないところはないけれども、月は眺める人の心にこそ宿るものだという歌です。

現代のように街灯も、コンビニも無い時代に暗闇を照らしてくれるのは月の光でした。月の光は暗い道を歩く人に、とても安心を与えてくれる光を放っています。

私の無明の闇を照らして下さる月の光とは、阿弥陀仏の救いの働きです。仏や菩薩の身心にそなわる光のことを光明といいます。迷いの闇を破って、真理を表す智慧の象徴するものとして使われる言葉です。

阿弥陀仏が私を救う働きは、丁度月の光がどこへでも届いているように隔てがありません。差別もありません。それならば、どんな人もすでに救われていてもよさそうですが、現実はそうなっていません。

そのことを「ながむるひとのこころにぞすむ」と詠まれています。

月が空に上って光を放っていても、月を見ない人には「きれいな月がでているな」と思うことはありません。今で言えば、夜道を歩いていたとしても、スマートフォンの画面を見続けているような状態では月を見ることはないでしょう。

すでに私に向かって照らして下さる月の光は、眺める人の心にこそ宿るように、阿弥陀仏の救いの働きは、その救いを仰いで受け入れる人に宿ります。

その光とは具体的には南無阿弥陀仏となって私に呼び掛けられています。その南無阿弥陀仏を称え聞いて阿弥陀仏の救いに疑いない人に、信心となって宿ります。

満月を眺める時には、阿弥陀仏の光明だと思って眺めてみてください。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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