【仏教ブログ】『浄土にてかならずかならず待っている』

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回、人は孤独であるということを教えられたお釈迦さまのお言葉を紹介しました。

しかし、家族や友人などと離ればなれになって二度と会うことができないと思うと大変つらくなってきます。

浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、晩年にお弟子に書かれた手紙には、それとは反対のことを書かれています。

この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。(親鸞聖人御消息)

私の体は、今は年を取ってしまい、貴方よりきっと先に浄土へと旅立って往生する。だから浄土で必ず必ず待っているぞと書かれています。

この世は老少不定とはいいながら、さすがに自分の年もある程度の年を越えていくと、きっとあの人より、また子供や孫より先に旅立つに違いないと思うときがあります。反対に、自分より年上の家族をみて、自分がきちんと見送らねばと思う人もあるでしょう。

そんなときに、見送られる立場になった人が「浄土にてかならずかならず待っているぞ」ということができるでしょうか?自分のこともさることながら、「待っているぞ」と言った相手がまた浄土に往生しなければ、どれだけ待っていても再会することは叶いません。見送る家族に「浄土で必ず必ず待っている」と言われたならば、私はどうやって浄土に往生すればいいのでしょうか?

それについて、親鸞聖人は上記のお手紙の中でこのように書かれています。

念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。(同上)

念仏するものを必ず浄土に往生させるという阿弥陀仏の本願であると疑い無く信じて、南無阿弥陀仏と称えるものは、浄土に往生すると言われています。

南無阿弥陀仏は、私を浄土に往生させるという阿弥陀仏のお働きそのものです。この南無阿弥陀仏を深く信ずる人は、浄土往生が定まりますので、親鸞聖人のように「浄土にてかならずかならず待っている」ということができます。また、同じように浄土往生が定まった人は必ず必ず浄土で再び会うことができます。

旅立つときには「待っているぞ」見送る側は「待っててね」とお互いが「必ず必ず浄土に往生する」という身になることが、本当に有り難いことだと思います。

―――――――――――――――――――――――――――

宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です