正しさと救いについて思うこと 2019年06月30日 18:06

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

ここ最近の痛ましい事件を通じて思ったことを書きます。

先日、元農林水産省の事務次官が、息子を刺殺したという事件がありました。報道によれば、2019年5月28日に神奈川県川崎市で発生した私立カリタス小学校の児童ら20人殺傷事件を見て、「このままでは息子が第三者に危害を加える」と思い犯行に及んだとのことです。

なぜ、我が子の命を自分の手で絶たなければならなかったのかという点については、本人にしか分からない事情もあります。しかし、その時その父親は「これが正しい」と判断したのだと思います。しかし、その「正しい」の思いは、何よりも父親自身を救ったことにはなっていません。息子の命をこの手で奪ったことについて、「全く後悔をしていない」と言い切る事はできないでしょう。

では、この父親はどうすればよかったのでしょうか?第三者としてはあれこれいうことも出来るでしょうし、それぞれの立場で「あの時はこうするべきだった」という人もいます。その人が信じる「正しいこと」を述べたとしてもその「正しさ」は当事者を救うことにはなりません。

ここで分かる事は、「本当の意味で正しいこと」が人を救うのであれば、私たちはその「正しいこと」を知り得ないということです。

浄土真宗を開かれた親鸞聖人の言葉として、歎異抄には以下のように書かれています。

聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。(歎異抄)

(現代文)

親鸞聖人は、「何が善であり何が悪であるのか、 そのどちらもわたしはまったく知らない。 なぜなら、如来がそのおこころで善と思いに なるほどに善を知り尽くしたのであれば、善を 知ったといえるであろうし、また如来が悪と お思いになるほどに悪を知り尽したので あれば、悪を知ったとえいえるからである。

しかしながら、わたしどもはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、この世は燃えさかる家のようにたちまちに移り変わる世界であって、すべてはむなしくいつわりで、真実といえるものは何一つない。その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである」と仰せになりました。

もし、私が考える「正しいこと」が人を救えるのならば、この世に苦しむ人はありません。なぜなら、苦しむ人の多くは、「こうなるとは思ってもいなかった」と考えるからです。「私が正しいと思うことが救いにはならない」ことから、親鸞聖人のは「阿弥陀仏が正しいと選ばれた念仏」が本当の救いだと教えられました。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。