年始に思うこと 2019年01月07日 21:01

年が変わりました。みなさん明けましておめでとうございます。

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

とはいっても、この記事も公開は1月1日から何日か経っていますので、すでに仕事にみなさん入られていることかと思います。

年が改まると心機一転ともいいますか、気持ちがリセットされる方も多いと思います。昔から「一年の計は元旦にあり」といいまして、元旦に今年一年の目標を立てようという人もあります。しかし、この言葉はこれ単体ではなく、実際はもっと長くて以下のものです。

「一日の計は朝にあり、一年の計は元旦にあり、一生の計は少壮の時にあり。」

※少壮(しょうそう)=若くて元気のよいこと。また、その年頃。

「計」というのは、「計画」の「計」です。自分で「こうなりたい」というものを立てるということになります。「一日の計」だと、考えやすいです。「今日はこういう仕事をしよう」とか「今日までにここまで終わらせよう」「今日はここに行こう」というように具体的なものがあります。

しかし、「一年の計」といわれるとどうでしょう?受験生なら「志望校に合格」とか、仕事を持っている人は「今年にはここまでいきたい」なとあるでしょう。

それでは、「一生の計」といわれたらどうでしょう?「わたしの人生」として考えた時、本当にしたかったことは何でしょうか?「一生過ぎやすし」(蓮如上人 御文章より)と言われます。人生100年時代と言われていますが、仮に100歳まで生きたとしたら、今の年齢と照らし合わせて見るとあと○○年あることになります。10歳の方は90年(略)60歳の方は40年、70歳の方は30年、80歳の方は20年あります。

そう言われると、何だか焦る気持ちが出ては来ないでしょうか?「あと○○年で出来ることって何だろうか?」と考える人もあると思います。しかし、その「○○年で出来たこと」も、何時かは置いて行かねばならない日が来ます。

それを蓮如上人の御文章に以下のように書かれています。

「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。」(蓮如上人御文章1帖目11通)

(いよいよ死んでいかねばならないときは、それまでたよりにしていた妻子も財産も、私についてきては暮れません。死んだ先にはたった一人で行かねばなりません。)

そう考えると「親のため」「子供のため」「孫のため」と頑張ってきたものは残りますが、「わが身にはひとつもあひそふことあるべからず」ということになります。「私には何も残らない」ということです。

もちろん「自分のことはどうでもいい」という人もあると思いますが、本当にそれでいいのでしょうか?仏教では「仏のさとりをひらく」のが、仏教の目的です。誰のためでもなく、私自身がこの生死を離れて仏になるという教えです。

一年の計は「生死を離れて仏になる」と言うのがいいのではないかと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。