【仏教ブログ】本当に大事なことは何でしょう?三帰依文から聞く3
光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。
三帰依文について書いてきましたが、今回は3回目です。
今回は、以下の部分について書きます。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。
願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
大まかな意味は、この上ない大変深い法は、どれだけ長い間懸かっても出会うことはないくらい遇うのが難しいものです。それを私は今、聞いて受けることができました。願うことは、仏様の真実の教えを理解できるようになりたいです。
となります。
同じ三帰依文の最初にも「仏法聞き難し、いますでに聞く。」とあります。それだけ、仏法は聞き難いものなのです。
では、なぜ聞き難いと言われるのでしょうか?
それは、生死の解決を説かれているからです。私たちにとって、分かりやすい病気が治るとか、人間関係が円滑になるといったような話は大勢の人にとって関心のあることです。事実、そのような本も沢山出ています。
反対に多くの人にとって、生死の問題は忙しい毎日の中でついつい後回しにしたり、忘れられているものです。人は生まれたからには、必ず死なねばなりません。そして、死んだ後はどうなっていくのでしょうか?
特に死ぬこと自体も、現代人は忘れがちです。人生の最後を病院で迎える人は、日本人の場合は8割を越えています。そのため、人の死に立ち会う場面も少なくなっています。他人の死でもそうですから、まして自分の死となるといつかはやってくるとはいえ、気にしない人が大半です。
気にする人はあっても、葬式や墓の準備まではしても、いざ自分が死んで行かねばならないということを本当に考える人はどれほどあるでしょうか?
仏教では、私たちは生まれて死んだ後はまた、別の生を受けまた死んでいくことを繰り返していくと教えられます。しかも、それは際限なく続くので生死流転とか、流転輪廻と言われます。その際限なく繰り返す生死から出て離れることを、生死出離といいます。その生死を離れ、本当の安心を得るのが仏教で言う解脱です。
どんな人にも必ずやってくる死という問題も、この生死から出て離れないことには解決ができません。ただ、そんな問題も多くの人はついつい忘れて過ごしているので仏法は聞き難いと言われます。
いろんなご縁で、その生死の問題に目が向いて、仏法を聞こうという気になられたら、それは大変有り難いことです。また生死の問題は、とても大きなものですが、そこから出て離れる法ですから「無上甚深微妙の法」と言われています。それだけ、この上なく深い教えが仏教ですから、是非聞いて頂きたいと思います。
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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)
Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。