【仏教ブログ】蓮の花について2・泥沼に咲く信心

光顔寺明照廟堂/水月精舎(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の続きです。

蓮の花は、淤泥華とも言われ、泥の中にあって綺麗な華を咲かせます。浄土真宗の信心は、泥のような煩悩しかない私の心に開かれていくのだと言われています。

卑湿の淤泥にいまし蓮華を生ず(教行信証・証文類より)

仏教では、修行によってこの煩悩を滅したさとりの境地に至ることが目的とされています。しかし、沼のような煩悩は私自身の力でどうにかできるものではありません。

そこで浄土真宗では、阿弥陀仏の救いは、この煩悩から離れられない私を救うために本願を建てられたのだと教えられます。

いわば、底なし沼にはまりこんでいる人に、自分の力で沼から出ることができたら救うというものではありません。沼から一歩も動けない人には、助けるほうが沼のところに入り込んで行かねばなりません。

ですから、阿弥陀仏は煩悩の泥沼に自ら入って私を救おうと働いてくださる仏様なのです。では、どのように私のところにやってきてくださるのかというと、それが南無阿弥陀仏のお念仏です。

親鸞聖人は、この南無阿弥陀仏は「本願招喚の勅命」であると言われています。阿弥陀仏が本願で誓われた通りに、私を招き喚び続けられるご命令であると言われています。別の言い方で言うと、私に向かってのお喚び声であると言うことです。

阿弥陀仏という仏様が、お喚び声そのものとなって私に届いて下さっています。それが、私の口から出てくださった相が、お念仏です。

この南無阿弥陀仏のお念仏が、私を喚び続けてくださる声であり、私を救う働きそのものであると聞いて疑いないことを、信心と言います。その信心は、私の煩悩という泥沼に咲いた蓮の花のように、煩悩によって汚れることはありません。煩悩を無くさなければ、咲かないというものではありません。

蓮の花を見ることがあれば、煩悩しかない私の上に、阿弥陀仏のお喚び声が信心となって花開くのだということを思ってみてください。

※下の画像は、生成AIが考えた「煩悩の泥沼に自ら入って私を救おうと働いてくださる阿弥陀仏」です。

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Profile

1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。

脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。

現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。

   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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