【仏教ブログ】どんな池にも月は宿るという話

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

9月に入りましたが、相変わらず暑い日々が続いております。気象庁の発表によると、観測史上最も暑い夏だったそうです。野菜を作られている方も、あまりの暑さと雨の少なさで例年に比べると収穫量は減ったとのことでした。

太陽の光はいろいろな恵みを与えてくれますが、あまりに強すぎると返って人を苦しめることにもなります。それに対して月の光は、闇夜を照らして人の心を落ち着ける働きがあります。

そこで、月の光を仏様の働きにたとえることがあります。

法然聖人のお言葉として伝わっているものに以下のものがあります。

たとへば葦のしげき池に、十五夜の月のやどりたるは、よそにては月やどりたりとも見えねども、よくよくたちよりてみれば、あしまをわけてやどるなり。妄念のあしはしげげれとも、三心の月はやどる也。(諸人伝説の詞)

ここで「三心」

といわれるのは、浄土真宗で言う他力信心・真実信心のことです。

例えば葦が多く茂っている池には、十五夜の月が出ていても、外から一見すると水面に月が宿っていないように見えてもよくよくみるとそうではありません。葦と葦の間の隙間に月の光は水面に映っています。私の煩悩は葦のように茂ってても信心の月は私の心に宿るのだと言われています。

また、葦というのは心の「悪し」との掛け詞として書かれています。私の心は、いろいろな善し悪しの心が浮かんでいます。一日過ごせば、善し悪しでいえば「悪し」の方が多いものです。

私たちはともすれば、こんな心の上には真実信心が与えられるということはないのではないかと考えてしまいます。そこで自分の心をきれいなものにしようと考える人もいます。池に茂った葦を抜かねば、月は宿らないと考えるようなものです。

しかし、月の光がどんな池でも川でも差別なく照らすように、私の心がどんな状態であれ阿弥陀仏の働きは私に働き続けています。ただ、南無阿弥陀仏となって私に喚びかけ働き続ける阿弥陀仏の仰せを聞いて疑いないのが信心です。私の心の善し悪しはそこには関係ありません。

月の光は、私を優しく照らしてくれます。南無阿弥陀仏の私を救う働きも同様です。

―――――――――――――――――――――――――――

宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です