【仏教ブログ】あれから10年を振り返って

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

東日本大震災から10年立ちました。歳を重ねるごとに、10年という年月を聞いても、つい最近のことのように感じられます。これから先の10年は過ぎてみたらもっと短く感じることでしょう。その間、自分自身は何も変わらないまま時間だけが過ぎているのではもったいないことだと蓮如上人は言われています。

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前回紹介した御文章を少し前の部分も含めて紹介します。

それ、つらつら人間のあだなる体を案ずるに、生あるものはかならず死に帰し、盛んなるものはつひに衰ふるならひなり。さればただいたづらに明かし、いたづらに暮して、年月を送るばかりなり。これまことになげきてもなほかなしむべし。このゆゑに、上は大聖世尊(釈尊)よりはじめて、下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり。しかればまれにも受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり。(御文章3帖目4通)

人間のはかない姿をよくよく考えてみると、生きているものは必ず死んでいき、若いものも最後は衰える習いである。だからただ虚しく夜明けを迎え、ただ日が暮れて、一ヶ月一年と日を送るばかりである。どんな人も死を逃れることはできない。

そんな中、なかなか人として生を受けることできない、また仏法を聞くことはさらにないことである。と言われています。

ここで「いたづらに明かし、いたづらに暮し」と言われているのは、「何もせずにぼーっと生きている」ということではありません。例えば、東日本大地震から10年間を振り返るとそれぞれ色んなことがあり、そこで時には笑い、時には泣いてきたことと思います。しかし、よくよく考えてみるとただ歳を重ねた以外には何も変わらない自分がいるのではないでしょうか。

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年を重ねること自体は自然なことですが、問題はいつまでも生き続けることは出来ないということです。死んでどこへ行くかも分からないまま命を終えても、それで終わりではないと仏教では教えられています。それを生死流転とか、流転輪廻といわれます。いろいろな姿に生まれては死にかわりを繰り返し、それに際限がない状態です。

その生死から離れる道を教えられたのが仏教です。浄土真宗では、生死を離れ、浄土に往生し仏になることが、阿弥陀仏の救いだと教えられています。その救いにあう人生は、いたづらに過ぎるものではなく、有り難いものに変わっていきます。どうかこの教えにあって頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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