仏教ブログ

【仏教ブログ】紅葉と仏教2020年11月16日 00:11

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

11月ともなると、朝晩もすっかり冷え込んで来ました。日中と夜の寒暖の差が大きくなると紅葉のシーズンです。

秋の観光といえば、紅葉狩りです。春の花見と並んで、両者に共通しているのは、「その時しか見られない」点です。言い替えると春の桜も、秋の紅葉も最後は散ってしまいます。そこに、いろいろと感じるところがあります。

その意味で、春の花見に比べて、秋の紅葉狩りはなんとなく淋しさが漂います。それは、紅葉というものが満開の桜に比べて、人生での終盤を感じさせるからではないかと思います。

かくいう私も、10代、20代のころは春の花見と秋の紅葉狩りを比べたならば、断然春の花見の方が好きでした。満開の桜というのは、いわば桜にとっての一番きれいな瞬間であり文字通り華があります。それに対して、紅葉は葉っぱの色が変わっただけというように思っていました。しかし、40代になったころから紅葉をみて非常に感ずるところが出てきました。自分自身も人生の季節で言えば、夏を過ぎて秋にさしかかってきたからだと思います。

桜の花は、パッと咲いてから散っていきます。それに対して、紅葉は花が咲く訳でもなくその身を赤く染めてから静かに散っていきます。人間で言えば、壮年期から老年期に向かっていく姿と重なります。

「出る息は、入る息を待たずして命終わる」

と言われます。紅葉も気がつけばどんどん色づいたかと思ったら、ハラハラと地面に落ちていくように、私の命も呼吸をしている間に残りは短く成っていきます。最後はこれが最後の一息という時が来ます。

紅葉の葉は、地面に落ちて終わりではなく、腐葉土となってまた木の栄養となります。同じように、私のいのちもこの肉体が老いて死んで灰になって終わりではありません。また、次のいのちに生まれていき、また死んで、生まれることを繰り返すのだと仏教では教えられます。これを、輪廻とか、生死流転と言われます。

その際限のない、輪廻から出て離れるのが、仏教で言うところの救われたということです。しかし、そんなことは誰でも出来ないと思うのが普通です。しかし、どんな人も、生死流転を離れて浄土に往生して、仏になるというのが浄土真宗の教えです。どうか、浄土真宗の教えを聞いて、生死を離れる身になって頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】Go ToトラベルとGo To浄土2020年11月01日 00:11

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

秋も深まり紅葉の季節となりました。現在政府のコロナ禍における観光支援策として、Go To トラベル や、Go To イートのキャンべーンが行われています。

「旅行に行こう」「外食をしよう」とのことですが、行くつもりのある人は、折角だからどこに行こうかと考えられている人もおられると思います。

しかし、仏教ではよく人生をまた旅に喩えられることがあります。そういう意味ではGo Toトラベルのキャンべーンを利用しない人もまた旅人であるといえます。

蓮如上人の御文章では、1帖目11通(電光朝露・死出の山路)がそれを書かれています。

まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。

人生という旅は、生まれてきて結婚をし、財産を築いたとしても、いよいよ死出の山路に入って行く時は、妻子も財宝も一つもついてきてはくれません。またついて行きたくてもついていくことは出来ません。三塗の河は一人で行かねばなりません。

こう聞くと、人生の旅路も最後となるといよいよ寂しいもののように思えます。しかし、この御文章には続きが有ります。

これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。

こういう人生の旅路だからこそ、ただ深く願うのは後生のことであり、また後生についてあてたよりにすべきなのは阿弥陀如来です。そして信心決定して参るのは阿弥陀仏の浄土であると続いて書かれています。

死出の山路、三塗の大河を一人で行くのではなく、阿弥陀仏の浄土に参りましょうと勧めておられるのが、蓮如上人の御文章です。お釈迦さまもそのように勧めておられます。

いわばGo To 浄土(浄土へ参りましょう)と勧められているのが、お釈迦さまであり浄土真宗です。

自分自身も、また家族も一人で寂しく旅立つのではありません。Go To浄土でお浄土参りをさせて頂きましょう。それは、阿弥陀仏のお力によるので、「たのむべきは弥陀如来なり」といわれて、「弥陀如来をたのむ」身になったことを信心決定といいますので、「信心決定してまゐるべきは安養の浄土なり」といわれます。

どうか阿弥陀如来をあてたよりにして下さい。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】「既読のつかないSNS」(クローズアップ現代)と御文章2020年10月15日 12:10

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回、御文章は阿弥陀仏から私に宛てた手紙だということをお話ししました。

しかし、当の私たちは「昔の人に宛てた手紙なのだろう」とか「家に有るけど読んだことはなかった」という人も多いかと思います。

とはいえ、御文章は五帖御文章でも80通あります。それ以外にも全部で200通以上の御文章が残されています。それだけ、繰り返し書かれたのはそれだけ伝えたいことがあってのことです。

どうしても伝えたいことは、相手が読むか分からなくでも送ってしまうという話の例として、クローズアップ現代プラス(NHK放送)から紹介します。

既読のつかないSNS ~テクノロジーでよみがえる“命”~ – NHK …

亡くなった家族や友人が使っていたSNSのアカウントに、死後もメッセージを送り続ける人たちが増えている。なにげないできごとを報告したり、生きていたときに伝えられなかった思いを吐露したり‥「既読はつかないけれど、スマホの中で生きているみたい‥」(2020年7月22日放送)

番組ではLINEに、メッセージを送り続ける家族や友人の姿が紹介されています。もちろん相手は亡くなっているので、どれだけ送っても「既読」はつきません。それでも、「本当は言いたいことを伝えられなかった」と言って送り続ける人がいます。

御文章が繰り返し書かれたのも、私に言いたいことがまだ伝えられていないと阿弥陀仏が思われているからです。

では、阿弥陀仏は何を伝えようとされているのかを、葬式などでも読まれる「白骨章」の最後の部分から紹介します。

されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。(白骨章)

人間世界の儚いことは、死ぬ順番が年齢で決まっていないところです。いつどうなるか分からないから、どんな人も早く後生の一大事という、生死の問題を解決して、迷いを重ねるのではなく後生は浄土に往生するという人生における最も大事なことを心にかけて、その後生を助けるという阿弥陀仏にまかせて、念仏を申しなさいと言われています。

LINEも未読が沢山たまっていたら、何か余程の用事だと思って開くのではないでしょうか。阿弥陀仏からの通知は、御文章という形届いています。

読まれたことのない方は、一度読んでみて下さい。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】年賀状が発売開始—真宗で一番読まれている手紙は御文章2020年10月01日 01:10

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

今年も早いもので、10月となりました。10月29日には年賀状も発売されるとのことです。

年賀状と言えば、日ごろお世話になった方に出すものですが、年を重ねるともう今年はあの人に出すことはなくなったということも増えてきます。

手紙は出す人と受け取る人があって初めて成立するものです。

宛て先のない手紙は、ポストに投函しても、相手に届くことはありません。そこで手紙と言えば、浄土真宗で最も読まれている手紙は、蓮如上人の御文章です。

御文章は、蓮如上人が門徒の要請によって書き始められたものです。最初は寛正2年(1461)頃とされています。それから生涯にわたって書き続けられ、その数は二百数十通に及びます。

その後、本願寺9代実如上人によって5帖御文章80通が選ばれ、本願寺10代証如上人によって出版され、全国の寺院、門徒に付与されました。それ以来、現在まで勤行や法話の後に拝読されています。

あまり法話にご縁のない方でも、葬式で「白骨の章」を聞かれたことはあるのではないでしょうか。

また、家に五帖の御文章があるという方もいらっしゃいます。それらの人にしてみると、すでに御文章という手紙が沢山家に届いているということです。

では、蓮如上人からの手紙が私に届けられているかというと、そうではありません。蓮如上人御一代記聞書にはこのようにあります。

一、御文は如来の直説なりと存ずべきのよしに候ふ。形をみれば法然、詞を聞けば弥陀の直説といへり

御文章は、阿弥陀如来の直接の説法だと思うべきである。それは、かつて法然上人が話をされると「形をみれば法然、言葉を聞けば阿弥陀如来の直接の説法」といわれたのとおなじことである。

真宗では、御文章をそのように阿弥陀如来から私への手紙であると頂いてきました。蓮如上人は、阿弥陀如来の説法を代筆して書かれているのだというものです。

では、阿弥陀仏は私にどのように説法をされているのでしょうか。

それは、私の後生について、「私をたのめ、必ず助ける」と呼びかけられています。

その呼びかけが、南無阿弥陀仏であり、手紙にしたのが御文章です。自分宛ての手紙は、誰からか分からないとしても一度は開けて目を通すと思います。そのように、私宛てに書かれた御文章という手紙を、家にある方は一度開いてみてください。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】中秋の名月にちなんで、月と仏教の話22020年09月15日 00:09

前回に続き、中秋の名月にちなんで、月に関する仏教の話を紹介します。

闇を照らす月の光を、仏の智慧の働きを喩えていわれたものに「月愛三昧(がつあいざんまい)」というのがあります。

涅槃経に

世尊大悲導師、阿闍世王のために月愛三昧に入れり

と説かれています。

「月愛三昧」の言葉の意味を、浄土真宗辞典から引用します。

釈尊が阿闍世の身心の苦悩を除くために入った三昧の名。きよらかな月の光が青蓮華を開花させ、また夜道を行く人を照らし歓喜を与えるように、仏がこの三昧に入れば衆生の煩悩を除いて善心を増長させ、迷いの世界にあって、さとりの道を求める行者に歓喜を与えるという。

お釈迦さまの時代に、阿闍世王という王様がいました。この阿闍世王は、父の王を殺害し、母親も殺害未遂のところまでした人間です。そうして王位についたのですが、しばらくして父親を手にかけた罪悪感から、身心に大きな苦しみを受けることになります。

その苦しみを除く為に、お釈迦さまは阿闍世王のために月愛三昧に入られました。それが契機となり、阿闍世王はお釈迦さまに帰依して仏教を聞き求め守護するようになりました。

太陽の光も、月の光りも同じ光ではありますが、その性質は大きく違います。太陽の光がなければ、動物も植物も生きていくことは出来ません。しかし、太陽の光は強すぎて直視することはできません。また、今年も大変な猛暑となりましたが、太陽の光が強すぎると、人の命も奪うことがあります。

それに対して月の光は、月見という言葉もあるように月の光を眺めて楽しむことが出来ます。また、月の光は闇夜を照らし、あらゆるものを優しく照らして奇麗に見せてくれます。

いろいろな迷い苦しみにある人も平等に包むように照らして下さるのが月の光です。闇の中を照らして私に道を示して下さいます。迷いの中にあっても、そこから出て離れるように呼びかけて下さっていると月の光を見て見ませんか?

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】中秋の名月を見て法然聖人の和歌を思い出す2020年09月01日 01:09

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

猛暑が続いた8月も終わり、9月は中秋の名月が見られる時です。今年のコロナ禍で、春の花見もできなかったという人も多いでしょうが、月見は家からでも出来ますので月を眺めるものいいと思います。

仏教では月や月の光を何かに喩えられることがしばしばあります。

法然聖人の詠まれた歌に以下のものがあります。

月かげのいたらぬさとはなけれども 

  ながむるひとのこころにぞすむ

ここで「月かげ」といわれているのは「月の光」のことです。

月の光が届かないところはないけれども、月は眺める人の心にこそ宿るものだという歌です。

現代のように街灯も、コンビニも無い時代に暗闇を照らしてくれるのは月の光でした。月の光は暗い道を歩く人に、とても安心を与えてくれる光を放っています。

私の無明の闇を照らして下さる月の光とは、阿弥陀仏の救いの働きです。仏や菩薩の身心にそなわる光のことを光明といいます。迷いの闇を破って、真理を表す智慧の象徴するものとして使われる言葉です。

阿弥陀仏が私を救う働きは、丁度月の光がどこへでも届いているように隔てがありません。差別もありません。それならば、どんな人もすでに救われていてもよさそうですが、現実はそうなっていません。

そのことを「ながむるひとのこころにぞすむ」と詠まれています。

月が空に上って光を放っていても、月を見ない人には「きれいな月がでているな」と思うことはありません。今で言えば、夜道を歩いていたとしても、スマートフォンの画面を見続けているような状態では月を見ることはないでしょう。

すでに私に向かって照らして下さる月の光は、眺める人の心にこそ宿るように、阿弥陀仏の救いの働きは、その救いを仰いで受け入れる人に宿ります。

その光とは具体的には南無阿弥陀仏となって私に呼び掛けられています。その南無阿弥陀仏を称え聞いて阿弥陀仏の救いに疑いない人に、信心となって宿ります。

満月を眺める時には、阿弥陀仏の光明だと思って眺めてみてください。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】お盆に考える―――亡き父母に対して私ができること2020年08月15日 00:08

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前々回、浄土真宗では亡き父母の為に追善供養をすることはないと書きました。

それについて、歎異抄第5条に親鸞聖人のお言葉として以下のように言われています。

親鸞は父母の孝養のためとて、一返すにても念仏申したること、いまだ候はず。

これは、親鸞は亡き父母の追善供養(追善回向)の気持ちで念仏を称えたことは一度もないと言われたものです。

その理由の一つは、念仏は私が励んで行う善ではないからです。南無阿弥陀仏と口から称えられる念仏は、阿弥陀仏が私に差し向けられる阿弥陀仏の行であって私の行ではないと親鸞聖人は教えられています。

では、なぜ念仏を勧められるのかといえば、それは早く阿弥陀仏のお救いにあって欲しいからです。

阿弥陀仏に救われると一体どうなるのかと言えば、この世のいのちが終わると阿弥陀仏の浄土に往生し、仏のさとりを開かせて頂きます。そして仏になった後は、自在に人々を再度することができます。

そのことを、同じく歎異抄第5条にはこう書かれています。

ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと。

自力の計らいを捨てて、速やかに浄土に往生して仏のさとりをひらいたならば、六道・四生といわれる迷いの世界で、どんなところで苦しんでいたとしても、神通方便をもって、まず自分と縁のあった人々を救うことができると言われています。

こう言われていることから分かるように、親鸞聖人は亡き父母に対してなんとか助かって欲しい、苦しみの世界に生まれていたとしたら何とかそこから離れて欲しいと思って折られました。それは多くの人が思うことです。

しかし、親鸞聖人は追善供養をすることではなく、自らが阿弥陀仏の救いにあって仏になることによって実際に父母を救いにいくのだと言われています。

南無阿弥陀仏によって、浄土に往生して仏のさとりをひらけば、亡き父母が浄土に往生していれば浄土で会えますし、そうでなければ、苦しむ父母兄弟を救うためどこへでも行って実際に救うことが出来ます。

そういう意味で亡き父母にあい、また本当の意味で救うには自分自身が南無阿弥陀仏によって救われることが大事です。そのためお盆の法要でも浄土真宗では教えを聞かせていただく法座が開かれています。

近くの法座に一度足を運んで見て下さい。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。

   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】猛暑に思うこと2020年08月06日 08:08

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

例年より遅い梅雨明けをして、全国的に真夏日が続いています。おそらく、昨年並に暑い日が続くことと思います。

特に8月は、亡くなった方について思いを起こすご縁が多い月になっています。各家庭でのお盆の仏事もあれば、広島・長崎の原爆投下、終戦の日もあります。私は、以前広島に三年ほどいたことがあります。その間、自身の被爆体験や、身内や知人の被爆体験を語る方から話を聞くことが何度もありました。詳しくは書けませんが本当に、訳も解らないまま大変な爆発が起こり、命は無事だった方が外に出て見ると大変な光景だったとのことでした。

それ以来、8月に夏の青くて高い空を見ると、どうしてもそのことを思い出すようになりました。

しかし、原爆のような大変なことが無ければ人は死なないのではありません。死の縁無量といいまして、私が今生きていることもいろんな因縁によって仮に成り立っているような不安定なものでしかありません。

蓮如上人は御文章にこのように書かれています。

「上は大聖世尊(釈尊)よりはじめて、下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり。しかればまれにも受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり。」(御文章3帖目4通)

お釈迦さまも、お釈迦さまの命を狙った提婆も、無常を逃れることはできません。そういう意味で、どんな人にも等しく無常はやって来ます。そして、人間に生まれるということは大変稀な有り難いことであり、仏法はまたあうことが難しいものです。

亡くなった方をご縁として、今一度無常ということを知るご縁があるのがこの猛暑の季節です。例外なく、私自身もまた逃れることができないのが無常です。そういう私がどうすればよいのかを教えられたのが仏法ですので、また仏法を聞き始めるご縁がこの季節になれば有り難いことだと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】いつもと違うお盆になる人へ2020年08月01日 00:08

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

8月になると、お盆に帰省をして墓参りや、法要を務める人も多いと思います。ところが、今年はこのコロナ禍で特に東京や大阪の人を中心に帰省を取りやめようと人も多いと聞きます。

そこで、お盆とは一体なんなのかについて改めて考えて見たいと思います。

お盆の行事の起源となったのは、「孟蘭盆経」と言われています。このお経には何が説かれているのかというと、お釈迦さまのお弟子である目連尊者がお釈迦さまに相談に来ました。

目連尊者は、釈尊十大弟子の一人であり神通力第一といわれる人でした。その目連尊者は、自らの神通力をもって亡き母が今どこで何をしているのかを探して見たところ、母親は餓鬼道で苦しんでいることが分かりました。

餓鬼道とは、いつも飢えて食べたいものが食べられない世界をいいます。その餓鬼道で苦しんでいる母親を知り、目連尊者は何とか母親に食べ物を与えようとします。しかし、母親が食べ物を口に運ぼうとすると、食べ物が炎となって食べることができません。

そこで目連尊者は、お釈迦様に相談をすることになったのです。亡き母の現状を伝えて、どうしたら餓鬼道から救うことができるのでしょうかと、目連尊者はお釈迦さまに訊ねました。

それに対してお釈迦さまは、「それはお前一人の力ではどうすることもできない。多くの僧侶の力を借りるのです。そこで、今の安居の終わった日に、僧に食事と休む道具を供養しなさい。そうすれば母は今の苦しみから逃れることが出来る。母だけでなく、父も、七世に渡る父母・六親眷属も苦しみから逃れることができる。」と教えられました。

これが起源となって孟蘭盆会が行われるようになったと言われています。今日の日本で行われるお盆の法要もこれが起源と言われます。亡き母が餓鬼道に堕ちるのは、子供を育てるのにそれだけいろいろな苦労もあり、餓鬼道に堕ちるような罪を作らねばならないとみることも出来ます。亡き父母の喜ぶことは私が本当の幸せになることではないでしょうか。

そこで、浄土真宗では先祖を救うという意味での供養をすることはないので、亡き父母や先祖をご縁として仏法を聞く集まりとして孟蘭盆会(場所によっては歓喜会)が開かれます。

帰省をして、墓参りなどをするのもお盆の法要ですが、それができない人は近くの法座に参加されるのもお盆の法要になりますのでお勧めします。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】無明の酒に酔った人へ「しらふで生きる」(町田康著)より2020年07月15日 13:07

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

新型コロナウイルスによる自粛も解禁され、観光地にも人が戻ってきています。徐々に以前のような生活に戻りつつあります。

これまでの自粛要請期間で何度か報道されていたのが、在宅時間が長くなることによる飲酒の増加で健康を損なう人が出てくるのではないかというものでした。

※参照

【新型コロナ】知らぬ間に、飲酒量が増えていませんか? 専門家「緊張状態が続く今、危ない」(ハフポスト日本版)

この度のコロナ禍で、在宅ワークに変わったり、あるいは仕事が減ったり失ったりでそのストレスからいつも以上にアルコールに手が伸びるのも気持ちとしてはよく分かります。

酒を飲むことでストレス解消になる人もあります。しかし、それで本当にストレスが解消しているのでしょうか?

そうではないということを、「しらふで生きる 大酒飲みの決断(町田康著)」から紹介します。

著者の町田康氏は、芥川賞作家で30年間一日も欠かさずに酒を飲み続け、さまざまなトラブルを起こしてきました。それがある日酒を辞めようと思いそれ以来4年間断酒を続けています。その経緯を書いた本がこの「しらふで生きる 大酒飲みの決断」です。

そこから一部引用します。

酒をやめたと言いしばしば酒徒から受ける問いに「それで人生寂しくないですか?」というのがあるがそんなことはない。なぜなら、人生とはもともと寂しいものであるからである。(酒を飲んでも飲まなくても人生は寂しい より 「しらふで生きる」)

酒を飲む人は、酒を飲まないと人生は寂しいと考えます。しかし、この考え方は酒飲みに限らずあらゆることに当てはまります。それは「仕事」であったり「家族」であったり「趣味」であったりします。それらがないと、「人生寂しい」と私たちは考えてそれらに熱中します。

しかし、この町田康氏が言うように「人生はもともと寂しいもの」なのです。いろいろなものをもってきて、寂しい人生を楽しい人生にしようとしても、それは暗い部屋にロウソクをともしたようなもので、部屋そのものが暗いことに変わりはありません。

それでも、いろいろなものによってその人生の寂しさを紛らわせているのが私ではないでしょうか?

親鸞聖人の書かれたお手紙にはこのようなことが書かれています。

もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。(親鸞聖人御消息)

そのことを「無明の酒に酔ひ」と言われています。多くの人は、いわば酒に酔っているようなものだということです。何が大事なのか判断が出来なくなっています。

そんな無明の酒に酔っている私が、阿弥陀仏の本願を聞いてより、その酔いも醒め南無阿弥陀仏と申す身になったと言われています。

人生は寂しいものですが、無明の酒では解決できません。南無阿弥陀仏を聞いて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
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