仏教ブログ

【仏教ブログ】中秋の名月にちなんで、月と仏教の話22020年09月15日 00:09

前回に続き、中秋の名月にちなんで、月に関する仏教の話を紹介します。

闇を照らす月の光を、仏の智慧の働きを喩えていわれたものに「月愛三昧(がつあいざんまい)」というのがあります。

涅槃経に

世尊大悲導師、阿闍世王のために月愛三昧に入れり

と説かれています。

「月愛三昧」の言葉の意味を、浄土真宗辞典から引用します。

釈尊が阿闍世の身心の苦悩を除くために入った三昧の名。きよらかな月の光が青蓮華を開花させ、また夜道を行く人を照らし歓喜を与えるように、仏がこの三昧に入れば衆生の煩悩を除いて善心を増長させ、迷いの世界にあって、さとりの道を求める行者に歓喜を与えるという。

お釈迦さまの時代に、阿闍世王という王様がいました。この阿闍世王は、父の王を殺害し、母親も殺害未遂のところまでした人間です。そうして王位についたのですが、しばらくして父親を手にかけた罪悪感から、身心に大きな苦しみを受けることになります。

その苦しみを除く為に、お釈迦さまは阿闍世王のために月愛三昧に入られました。それが契機となり、阿闍世王はお釈迦さまに帰依して仏教を聞き求め守護するようになりました。

太陽の光も、月の光りも同じ光ではありますが、その性質は大きく違います。太陽の光がなければ、動物も植物も生きていくことは出来ません。しかし、太陽の光は強すぎて直視することはできません。また、今年も大変な猛暑となりましたが、太陽の光が強すぎると、人の命も奪うことがあります。

それに対して月の光は、月見という言葉もあるように月の光を眺めて楽しむことが出来ます。また、月の光は闇夜を照らし、あらゆるものを優しく照らして奇麗に見せてくれます。

いろいろな迷い苦しみにある人も平等に包むように照らして下さるのが月の光です。闇の中を照らして私に道を示して下さいます。迷いの中にあっても、そこから出て離れるように呼びかけて下さっていると月の光を見て見ませんか?

―――――――――――――――――――――――――――

宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】中秋の名月を見て法然聖人の和歌を思い出す2020年09月01日 01:09

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

猛暑が続いた8月も終わり、9月は中秋の名月が見られる時です。今年のコロナ禍で、春の花見もできなかったという人も多いでしょうが、月見は家からでも出来ますので月を眺めるものいいと思います。

仏教では月や月の光を何かに喩えられることがしばしばあります。

法然聖人の詠まれた歌に以下のものがあります。

月かげのいたらぬさとはなけれども 

  ながむるひとのこころにぞすむ

ここで「月かげ」といわれているのは「月の光」のことです。

月の光が届かないところはないけれども、月は眺める人の心にこそ宿るものだという歌です。

現代のように街灯も、コンビニも無い時代に暗闇を照らしてくれるのは月の光でした。月の光は暗い道を歩く人に、とても安心を与えてくれる光を放っています。

私の無明の闇を照らして下さる月の光とは、阿弥陀仏の救いの働きです。仏や菩薩の身心にそなわる光のことを光明といいます。迷いの闇を破って、真理を表す智慧の象徴するものとして使われる言葉です。

阿弥陀仏が私を救う働きは、丁度月の光がどこへでも届いているように隔てがありません。差別もありません。それならば、どんな人もすでに救われていてもよさそうですが、現実はそうなっていません。

そのことを「ながむるひとのこころにぞすむ」と詠まれています。

月が空に上って光を放っていても、月を見ない人には「きれいな月がでているな」と思うことはありません。今で言えば、夜道を歩いていたとしても、スマートフォンの画面を見続けているような状態では月を見ることはないでしょう。

すでに私に向かって照らして下さる月の光は、眺める人の心にこそ宿るように、阿弥陀仏の救いの働きは、その救いを仰いで受け入れる人に宿ります。

その光とは具体的には南無阿弥陀仏となって私に呼び掛けられています。その南無阿弥陀仏を称え聞いて阿弥陀仏の救いに疑いない人に、信心となって宿ります。

満月を眺める時には、阿弥陀仏の光明だと思って眺めてみてください。

―――――――――――――――――――――――――――

宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】お盆に考える―――亡き父母に対して私ができること2020年08月15日 00:08

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前々回、浄土真宗では亡き父母の為に追善供養をすることはないと書きました。

それについて、歎異抄第5条に親鸞聖人のお言葉として以下のように言われています。

親鸞は父母の孝養のためとて、一返すにても念仏申したること、いまだ候はず。

これは、親鸞は亡き父母の追善供養(追善回向)の気持ちで念仏を称えたことは一度もないと言われたものです。

その理由の一つは、念仏は私が励んで行う善ではないからです。南無阿弥陀仏と口から称えられる念仏は、阿弥陀仏が私に差し向けられる阿弥陀仏の行であって私の行ではないと親鸞聖人は教えられています。

では、なぜ念仏を勧められるのかといえば、それは早く阿弥陀仏のお救いにあって欲しいからです。

阿弥陀仏に救われると一体どうなるのかと言えば、この世のいのちが終わると阿弥陀仏の浄土に往生し、仏のさとりを開かせて頂きます。そして仏になった後は、自在に人々を再度することができます。

そのことを、同じく歎異抄第5条にはこう書かれています。

ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと。

自力の計らいを捨てて、速やかに浄土に往生して仏のさとりをひらいたならば、六道・四生といわれる迷いの世界で、どんなところで苦しんでいたとしても、神通方便をもって、まず自分と縁のあった人々を救うことができると言われています。

こう言われていることから分かるように、親鸞聖人は亡き父母に対してなんとか助かって欲しい、苦しみの世界に生まれていたとしたら何とかそこから離れて欲しいと思って折られました。それは多くの人が思うことです。

しかし、親鸞聖人は追善供養をすることではなく、自らが阿弥陀仏の救いにあって仏になることによって実際に父母を救いにいくのだと言われています。

南無阿弥陀仏によって、浄土に往生して仏のさとりをひらけば、亡き父母が浄土に往生していれば浄土で会えますし、そうでなければ、苦しむ父母兄弟を救うためどこへでも行って実際に救うことが出来ます。

そういう意味で亡き父母にあい、また本当の意味で救うには自分自身が南無阿弥陀仏によって救われることが大事です。そのためお盆の法要でも浄土真宗では教えを聞かせていただく法座が開かれています。

近くの法座に一度足を運んで見て下さい。

―――――――――――――――――――――――――――

宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile

1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。

脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。

現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。

   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】猛暑に思うこと2020年08月06日 08:08

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

例年より遅い梅雨明けをして、全国的に真夏日が続いています。おそらく、昨年並に暑い日が続くことと思います。

特に8月は、亡くなった方について思いを起こすご縁が多い月になっています。各家庭でのお盆の仏事もあれば、広島・長崎の原爆投下、終戦の日もあります。私は、以前広島に三年ほどいたことがあります。その間、自身の被爆体験や、身内や知人の被爆体験を語る方から話を聞くことが何度もありました。詳しくは書けませんが本当に、訳も解らないまま大変な爆発が起こり、命は無事だった方が外に出て見ると大変な光景だったとのことでした。

それ以来、8月に夏の青くて高い空を見ると、どうしてもそのことを思い出すようになりました。

しかし、原爆のような大変なことが無ければ人は死なないのではありません。死の縁無量といいまして、私が今生きていることもいろんな因縁によって仮に成り立っているような不安定なものでしかありません。

蓮如上人は御文章にこのように書かれています。

「上は大聖世尊(釈尊)よりはじめて、下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり。しかればまれにも受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり。」(御文章3帖目4通)

お釈迦さまも、お釈迦さまの命を狙った提婆も、無常を逃れることはできません。そういう意味で、どんな人にも等しく無常はやって来ます。そして、人間に生まれるということは大変稀な有り難いことであり、仏法はまたあうことが難しいものです。

亡くなった方をご縁として、今一度無常ということを知るご縁があるのがこの猛暑の季節です。例外なく、私自身もまた逃れることができないのが無常です。そういう私がどうすればよいのかを教えられたのが仏法ですので、また仏法を聞き始めるご縁がこの季節になれば有り難いことだと思います。

―――――――――――――――――――――――――――

宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】いつもと違うお盆になる人へ2020年08月01日 00:08

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

8月になると、お盆に帰省をして墓参りや、法要を務める人も多いと思います。ところが、今年はこのコロナ禍で特に東京や大阪の人を中心に帰省を取りやめようと人も多いと聞きます。

そこで、お盆とは一体なんなのかについて改めて考えて見たいと思います。

お盆の行事の起源となったのは、「孟蘭盆経」と言われています。このお経には何が説かれているのかというと、お釈迦さまのお弟子である目連尊者がお釈迦さまに相談に来ました。

目連尊者は、釈尊十大弟子の一人であり神通力第一といわれる人でした。その目連尊者は、自らの神通力をもって亡き母が今どこで何をしているのかを探して見たところ、母親は餓鬼道で苦しんでいることが分かりました。

餓鬼道とは、いつも飢えて食べたいものが食べられない世界をいいます。その餓鬼道で苦しんでいる母親を知り、目連尊者は何とか母親に食べ物を与えようとします。しかし、母親が食べ物を口に運ぼうとすると、食べ物が炎となって食べることができません。

そこで目連尊者は、お釈迦様に相談をすることになったのです。亡き母の現状を伝えて、どうしたら餓鬼道から救うことができるのでしょうかと、目連尊者はお釈迦さまに訊ねました。

それに対してお釈迦さまは、「それはお前一人の力ではどうすることもできない。多くの僧侶の力を借りるのです。そこで、今の安居の終わった日に、僧に食事と休む道具を供養しなさい。そうすれば母は今の苦しみから逃れることが出来る。母だけでなく、父も、七世に渡る父母・六親眷属も苦しみから逃れることができる。」と教えられました。

これが起源となって孟蘭盆会が行われるようになったと言われています。今日の日本で行われるお盆の法要もこれが起源と言われます。亡き母が餓鬼道に堕ちるのは、子供を育てるのにそれだけいろいろな苦労もあり、餓鬼道に堕ちるような罪を作らねばならないとみることも出来ます。亡き父母の喜ぶことは私が本当の幸せになることではないでしょうか。

そこで、浄土真宗では先祖を救うという意味での供養をすることはないので、亡き父母や先祖をご縁として仏法を聞く集まりとして孟蘭盆会(場所によっては歓喜会)が開かれます。

帰省をして、墓参りなどをするのもお盆の法要ですが、それができない人は近くの法座に参加されるのもお盆の法要になりますのでお勧めします。

―――――――――――――――――――――――――――

宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】無明の酒に酔った人へ「しらふで生きる」(町田康著)より2020年07月15日 13:07

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

新型コロナウイルスによる自粛も解禁され、観光地にも人が戻ってきています。徐々に以前のような生活に戻りつつあります。

これまでの自粛要請期間で何度か報道されていたのが、在宅時間が長くなることによる飲酒の増加で健康を損なう人が出てくるのではないかというものでした。

※参照

【新型コロナ】知らぬ間に、飲酒量が増えていませんか? 専門家「緊張状態が続く今、危ない」(ハフポスト日本版)

この度のコロナ禍で、在宅ワークに変わったり、あるいは仕事が減ったり失ったりでそのストレスからいつも以上にアルコールに手が伸びるのも気持ちとしてはよく分かります。

酒を飲むことでストレス解消になる人もあります。しかし、それで本当にストレスが解消しているのでしょうか?

そうではないということを、「しらふで生きる 大酒飲みの決断(町田康著)」から紹介します。

著者の町田康氏は、芥川賞作家で30年間一日も欠かさずに酒を飲み続け、さまざまなトラブルを起こしてきました。それがある日酒を辞めようと思いそれ以来4年間断酒を続けています。その経緯を書いた本がこの「しらふで生きる 大酒飲みの決断」です。

そこから一部引用します。

酒をやめたと言いしばしば酒徒から受ける問いに「それで人生寂しくないですか?」というのがあるがそんなことはない。なぜなら、人生とはもともと寂しいものであるからである。(酒を飲んでも飲まなくても人生は寂しい より 「しらふで生きる」)

酒を飲む人は、酒を飲まないと人生は寂しいと考えます。しかし、この考え方は酒飲みに限らずあらゆることに当てはまります。それは「仕事」であったり「家族」であったり「趣味」であったりします。それらがないと、「人生寂しい」と私たちは考えてそれらに熱中します。

しかし、この町田康氏が言うように「人生はもともと寂しいもの」なのです。いろいろなものをもってきて、寂しい人生を楽しい人生にしようとしても、それは暗い部屋にロウソクをともしたようなもので、部屋そのものが暗いことに変わりはありません。

それでも、いろいろなものによってその人生の寂しさを紛らわせているのが私ではないでしょうか?

親鸞聖人の書かれたお手紙にはこのようなことが書かれています。

もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。(親鸞聖人御消息)

そのことを「無明の酒に酔ひ」と言われています。多くの人は、いわば酒に酔っているようなものだということです。何が大事なのか判断が出来なくなっています。

そんな無明の酒に酔っている私が、阿弥陀仏の本願を聞いてより、その酔いも醒め南無阿弥陀仏と申す身になったと言われています。

人生は寂しいものですが、無明の酒では解決できません。南無阿弥陀仏を聞いて頂きたいと思います。

―――――――――――――――――――――――――――

宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】本当に大事なことは何でしょう?三帰依文から聞く32020年07月01日 01:07

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

三帰依文について書いてきましたが、今回は3回目です。

今回は、以下の部分について書きます。

無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。

願わくは如来の真実義を解したてまつらん。

大まかな意味は、この上ない大変深い法は、どれだけ長い間懸かっても出会うことはないくらい遇うのが難しいものです。それを私は今、聞いて受けることができました。願うことは、仏様の真実の教えを理解できるようになりたいです。

となります。

同じ三帰依文の最初にも「仏法聞き難し、いますでに聞く。」とあります。それだけ、仏法は聞き難いものなのです。

では、なぜ聞き難いと言われるのでしょうか?

それは、生死の解決を説かれているからです。私たちにとって、分かりやすい病気が治るとか、人間関係が円滑になるといったような話は大勢の人にとって関心のあることです。事実、そのような本も沢山出ています。

反対に多くの人にとって、生死の問題は忙しい毎日の中でついつい後回しにしたり、忘れられているものです。人は生まれたからには、必ず死なねばなりません。そして、死んだ後はどうなっていくのでしょうか?

特に死ぬこと自体も、現代人は忘れがちです。人生の最後を病院で迎える人は、日本人の場合は8割を越えています。そのため、人の死に立ち会う場面も少なくなっています。他人の死でもそうですから、まして自分の死となるといつかはやってくるとはいえ、気にしない人が大半です。

気にする人はあっても、葬式や墓の準備まではしても、いざ自分が死んで行かねばならないということを本当に考える人はどれほどあるでしょうか?

仏教では、私たちは生まれて死んだ後はまた、別の生を受けまた死んでいくことを繰り返していくと教えられます。しかも、それは際限なく続くので生死流転とか、流転輪廻と言われます。その際限なく繰り返す生死から出て離れることを、生死出離といいます。その生死を離れ、本当の安心を得るのが仏教で言う解脱です。

どんな人にも必ずやってくる死という問題も、この生死から出て離れないことには解決ができません。ただ、そんな問題も多くの人はついつい忘れて過ごしているので仏法は聞き難いと言われます。

いろんなご縁で、その生死の問題に目が向いて、仏法を聞こうという気になられたら、それは大変有り難いことです。また生死の問題は、とても大きなものですが、そこから出て離れる法ですから「無上甚深微妙の法」と言われています。それだけ、この上なく深い教えが仏教ですから、是非聞いて頂きたいと思います。

―――――――――――――――――――――――――――

宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】本当によりどころとなるものについて。三帰依文から聞く22020年06月15日 16:06

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の記事で、三帰依文について書きました。

今回はその続きです。

大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。

自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。

自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。

自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。

無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。

願わくは如来の真実義を解したてまつらん。

ここで三帰依について浄土真宗辞典ではこう書かれています。

さんきえ 三帰依

略して三帰ともいう。帰依仏・帰依法・帰依僧の三。仏・法・僧の三宝に帰依すること。この三帰依は仏教徒としての必須条件である。

「帰依」というのは、信じよりどころとすることの意味です。

そこで三帰依文の大まかな意味を書きますと、今回先にあげたものはこうなります。

みなさんも私も、まことの心で仏さま、仏様の教え、その教えを信じる人の集まりを信じよりどころとしてください。

そして私は、仏に帰依いたします。法(教え)に帰依いたします。僧(教えを聞く人の集まり)に帰依いたします。

この上のない大変深い教えは、どれだけ長い期間迷い続けていてあうことが難しいものです。私はそれにいまあわせて頂き聞くことができた。どうか仏様の真実の教えがわかるようになってもらいたいと言われています。

昨今のコロナ禍によって、それまで信じてよりどころとしていた人やものを失った人も多くおられます。例えば、観光に携わる仕事の人たちはその前提であった観光客が来なくなり大変苦しい状況になっています。飲食店の人は人が外食をするという前提が崩れ大変苦しい状況になっています。

それまで当たり前だったと思っていたことも、いつどうなるか分からないということを改めて知らされたのが昨今の状況です。

私たちは、それぞれがこれは間違いないということをよりどころとして生きています。しかし、それが本当に間違いないものなのでしょうか?いつどうなるか分からないものを拠り処として生きていくと、いつか崩れるのではないかと常に不安がつきまといます。

そこで私たちが本当に拠り所となるものはなんなのか。それについて仏・法・僧の三宝に帰依をしなさいと勧められ、私は仏・法・僧の三宝に帰依いたしましたというのがこの三帰依文です。どうか、みなさんもこの仏・法・僧をよりどころとして、また拠り処となりましたという安心をえて頂きたいと思います。

―――――――――――――――――――――――――――

宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】本当に大事なことは何でしょう?三帰依文から聞く12020年06月01日 16:06

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

緊急事態宣言が終わり、少しは日常が戻って参りました。

特に小中学生にとっては待ち望んでいた学校の再開です。日ごろは、学校から帰ってゲームばかりしていた子供も、長い休みの間、外にもあまり出られず、ゲームばかりをしてさすがに飽き飽きしたという声も聞きました。子供にとって本当に大切なもの、やりたいことは何だったのかを振り返る機会だったのかもしれません。

子供に限らず、私たちも、本当に大事なものは何だったのかを考える期間でした。いつも当たり前のようにあったものが、先日の緊急事態宣言の間になくなってしまったものもたくさんあります。また会わなくなった人も多くいると思います。このように、本当に大事なものというのは失って初めて気が付くことが多いです。反対に、失って見て思ったほど自分にとって大事ではなかったと気がつくものもあります。

では失ってそれが大事だったか、そうではなかったの違いはどこで起きるのでしょうか?それは、自分にとって替えがきかないものかどうかです。

「三帰依文」には以下のような言葉があります。

人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。

大まかな意味を書きますと、人間に生まれることは難しい、しかしその受け難い人としての生をいますでに受けている。仏の教えは聞き難いが、いますでに聞かせて頂いた。このいまの私が、この人生で迷いを離れることができなければ、さらに何度生まれ変わりを繰り返しても迷いを離れることはできないだろう。というものです。

私のいのち、私の人生というのは私にとってもっとも掛け替えのないものです。なぜなら、私の人生を他の人に変わってもらうことはできないからです。それも、その人間に生を受けるということは大変有り難いことです。そのありがたい人間の身に生を受けたのですから、無為にすごすのは大変勿体ないことです。

仏教もまた掛け替えのない教えです。なぜなら私が迷いを離れる教えが説かれているからです。そんな教えにはなかなかあい難いものですから、仏法聞き難しといわれます。

その仏法をいま聞いている人は、掛け替えのない機会を得ているわけですから、この今の人生で迷いを離れなければ、次にいつ人としての生を受け、その上仏法をきくことがあるでしょうか?だからこの人生で迷いを離れましょうといわれているのが三帰依文の最初の部分です。

私にとって、本当に大事なものはこの私のいのちです。ですが、ただ迷いを重ねることが大事なのではなく、迷いを離れることが大事です。そして迷いを離れることを教えられているのが仏法ですから、どうぞその教えを聞いて頂きたいと思います。

―――――――――――――――――――――――――――

宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】ソーシャルディスタンスで感じる距離感は、実は人生の実態をあらわしているのかも2020年05月15日 12:05

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

新型コロナウイルスの感染拡大防止に向けて、最近よく耳にするようになった言葉の一つが「ソーシャルディスタンス」です。飛沫感染を防ぐ為に、他人と2メートル以上の距離を置きましょうというものです。それによって、4月の緊急事態宣言以降、全国のスーバーやコンビニエンスストアではレジに並ぶ列に、二メートル間隔を開けるための足型マークが付けられるようになりました。

加えて、スーバーでもほとんどの人がマスクを着用しており、そこで知人に会ってもマスクを掛けたままお互い距離をとって手短に挨拶をするような光景を見るようになりました。また、三密(密閉、密集、密接)を避けるということで旅行も食事会も寄り合いも自粛となり、加えて移動自粛の要請もあり、都道府県をまたいだ先の家族や友人に会うことも難しい期間が続いています。その結果、家にいる時間が多くなった人も多いと思います。また、一人でいる時間が増えた人も多いと思います。

そこで感じるのは「人に会いたい」という欲求です。しかし、よくよく考えて見ると、新型コロナウイルス以前に自由に人と会ったり話が出来る環境だった時に、本当に人と会っていたのでしょうか?マスク越しや2メートルの距離をとっての会話は今までの人間関係を可視化したものにすぎません。マスクを外して、近い距離で会話をしたとしても本当にその人と分かりあうことができるのでしょうか?本当に相手と分かりあうことを「人に会った」というのであれば、私たちは人に会っていないのかもしれません。

そういう意味で、人は独りなのだということを知らされるのが最近の社会状況です。

そのことを、お釈迦さまは、仏説無量寿経にこのように説かれています。

「人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。」

(現代語版)

人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。

「善悪自然にして行を追うて生ずるところなり。窈々冥々として別離久しく長し。道路同じからずして会ひ見ること期なし。」

(現代語版)

それぞれ善悪の行いにしたがって生れて行くのである。行く先は遠くてよく見えず、永久に別れ別れとなり、行く道が同じではないからまず出会うことはない。

人は生まれた時も独りならば、死んでいくときもまた独りです。

そして、生きている間に出会った人々とも、それぞれの行き先は別々となり、一緒に死んでいくことはありません。

ソーシャルディスタンスで感じる距離感や孤独感は、実はソーシャルディスタンスによるものではなく実際の孤独感をよりわかりやくすくしたものです。

しかし、こういう私たちに共に一つの処で会うことが出来るといわれたのが、阿弥陀仏の浄土であり、その阿弥陀仏の浄土に往生する道を教えられた浄土真宗です。

―――――――――――――――――――――――――――

宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

1 2 3 4