仏教ブログ

【仏教ブログ】本当によりどころとなるものについて。三帰依文から聞く22020年06月15日 16:06

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の記事で、三帰依文について書きました。

今回はその続きです。

大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。

自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。

自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。

自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。

無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。

願わくは如来の真実義を解したてまつらん。

ここで三帰依について浄土真宗辞典ではこう書かれています。

さんきえ 三帰依

略して三帰ともいう。帰依仏・帰依法・帰依僧の三。仏・法・僧の三宝に帰依すること。この三帰依は仏教徒としての必須条件である。

「帰依」というのは、信じよりどころとすることの意味です。

そこで三帰依文の大まかな意味を書きますと、今回先にあげたものはこうなります。

みなさんも私も、まことの心で仏さま、仏様の教え、その教えを信じる人の集まりを信じよりどころとしてください。

そして私は、仏に帰依いたします。法(教え)に帰依いたします。僧(教えを聞く人の集まり)に帰依いたします。

この上のない大変深い教えは、どれだけ長い期間迷い続けていてあうことが難しいものです。私はそれにいまあわせて頂き聞くことができた。どうか仏様の真実の教えがわかるようになってもらいたいと言われています。

昨今のコロナ禍によって、それまで信じてよりどころとしていた人やものを失った人も多くおられます。例えば、観光に携わる仕事の人たちはその前提であった観光客が来なくなり大変苦しい状況になっています。飲食店の人は人が外食をするという前提が崩れ大変苦しい状況になっています。

それまで当たり前だったと思っていたことも、いつどうなるか分からないということを改めて知らされたのが昨今の状況です。

私たちは、それぞれがこれは間違いないということをよりどころとして生きています。しかし、それが本当に間違いないものなのでしょうか?いつどうなるか分からないものを拠り処として生きていくと、いつか崩れるのではないかと常に不安がつきまといます。

そこで私たちが本当に拠り所となるものはなんなのか。それについて仏・法・僧の三宝に帰依をしなさいと勧められ、私は仏・法・僧の三宝に帰依いたしましたというのがこの三帰依文です。どうか、みなさんもこの仏・法・僧をよりどころとして、また拠り処となりましたという安心をえて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】本当に大事なことは何でしょう?三帰依文から聞く12020年06月01日 16:06

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

緊急事態宣言が終わり、少しは日常が戻って参りました。

特に小中学生にとっては待ち望んでいた学校の再開です。日ごろは、学校から帰ってゲームばかりしていた子供も、長い休みの間、外にもあまり出られず、ゲームばかりをしてさすがに飽き飽きしたという声も聞きました。子供にとって本当に大切なもの、やりたいことは何だったのかを振り返る機会だったのかもしれません。

子供に限らず、私たちも、本当に大事なものは何だったのかを考える期間でした。いつも当たり前のようにあったものが、先日の緊急事態宣言の間になくなってしまったものもたくさんあります。また会わなくなった人も多くいると思います。このように、本当に大事なものというのは失って初めて気が付くことが多いです。反対に、失って見て思ったほど自分にとって大事ではなかったと気がつくものもあります。

では失ってそれが大事だったか、そうではなかったの違いはどこで起きるのでしょうか?それは、自分にとって替えがきかないものかどうかです。

「三帰依文」には以下のような言葉があります。

人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。

大まかな意味を書きますと、人間に生まれることは難しい、しかしその受け難い人としての生をいますでに受けている。仏の教えは聞き難いが、いますでに聞かせて頂いた。このいまの私が、この人生で迷いを離れることができなければ、さらに何度生まれ変わりを繰り返しても迷いを離れることはできないだろう。というものです。

私のいのち、私の人生というのは私にとってもっとも掛け替えのないものです。なぜなら、私の人生を他の人に変わってもらうことはできないからです。それも、その人間に生を受けるということは大変有り難いことです。そのありがたい人間の身に生を受けたのですから、無為にすごすのは大変勿体ないことです。

仏教もまた掛け替えのない教えです。なぜなら私が迷いを離れる教えが説かれているからです。そんな教えにはなかなかあい難いものですから、仏法聞き難しといわれます。

その仏法をいま聞いている人は、掛け替えのない機会を得ているわけですから、この今の人生で迷いを離れなければ、次にいつ人としての生を受け、その上仏法をきくことがあるでしょうか?だからこの人生で迷いを離れましょうといわれているのが三帰依文の最初の部分です。

私にとって、本当に大事なものはこの私のいのちです。ですが、ただ迷いを重ねることが大事なのではなく、迷いを離れることが大事です。そして迷いを離れることを教えられているのが仏法ですから、どうぞその教えを聞いて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】ソーシャルディスタンスで感じる距離感は、実は人生の実態をあらわしているのかも2020年05月15日 12:05

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

新型コロナウイルスの感染拡大防止に向けて、最近よく耳にするようになった言葉の一つが「ソーシャルディスタンス」です。飛沫感染を防ぐ為に、他人と2メートル以上の距離を置きましょうというものです。それによって、4月の緊急事態宣言以降、全国のスーバーやコンビニエンスストアではレジに並ぶ列に、二メートル間隔を開けるための足型マークが付けられるようになりました。

加えて、スーバーでもほとんどの人がマスクを着用しており、そこで知人に会ってもマスクを掛けたままお互い距離をとって手短に挨拶をするような光景を見るようになりました。また、三密(密閉、密集、密接)を避けるということで旅行も食事会も寄り合いも自粛となり、加えて移動自粛の要請もあり、都道府県をまたいだ先の家族や友人に会うことも難しい期間が続いています。その結果、家にいる時間が多くなった人も多いと思います。また、一人でいる時間が増えた人も多いと思います。

そこで感じるのは「人に会いたい」という欲求です。しかし、よくよく考えて見ると、新型コロナウイルス以前に自由に人と会ったり話が出来る環境だった時に、本当に人と会っていたのでしょうか?マスク越しや2メートルの距離をとっての会話は今までの人間関係を可視化したものにすぎません。マスクを外して、近い距離で会話をしたとしても本当にその人と分かりあうことができるのでしょうか?本当に相手と分かりあうことを「人に会った」というのであれば、私たちは人に会っていないのかもしれません。

そういう意味で、人は独りなのだということを知らされるのが最近の社会状況です。

そのことを、お釈迦さまは、仏説無量寿経にこのように説かれています。

「人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。」

(現代語版)

人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。

「善悪自然にして行を追うて生ずるところなり。窈々冥々として別離久しく長し。道路同じからずして会ひ見ること期なし。」

(現代語版)

それぞれ善悪の行いにしたがって生れて行くのである。行く先は遠くてよく見えず、永久に別れ別れとなり、行く道が同じではないからまず出会うことはない。

人は生まれた時も独りならば、死んでいくときもまた独りです。

そして、生きている間に出会った人々とも、それぞれの行き先は別々となり、一緒に死んでいくことはありません。

ソーシャルディスタンスで感じる距離感や孤独感は、実はソーシャルディスタンスによるものではなく実際の孤独感をよりわかりやくすくしたものです。

しかし、こういう私たちに共に一つの処で会うことが出来るといわれたのが、阿弥陀仏の浄土であり、その阿弥陀仏の浄土に往生する道を教えられた浄土真宗です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】移動自粛で帰省できない今年の大型連休に本当に帰る場所を考える2020年05月01日 01:05

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

2020年4月日本政府は新型コロナウイルスの感染拡大をうけて、全国に緊急事態宣言を出しました。それによって、都道府県をまたいでの移動自粛が呼びかけられました。

いつもの年ならば、大型連休に実家へ帰るUターンラッシュで大混雑の公共交通機関や高速道路も今年は閑散としています。子供や孫の顔を見るのを楽しみにしていた親御さんにとっても大変寂しい連休となりました。

こうなると故郷があっても帰ることができないというのは辛いものだと感じます。また迎える側からしても、帰ってくる筈の子供が帰ってこないというのは残念なものです。

しかし、これを機会に考えて見ると、私が本当に帰るところは一体どこにあるのでしょうか?都会から地元に帰省する人も、連休が過ぎればまた都会へと戻っていきます。迎える側からしても、「帰ってきた」と喜んでも連休が終わればまた見送らねばなりません。そうして、都会で働く人も、地元で迎える人もいつまでもそれを続けることはできません。いつかは、この命も終わりを迎える時がやってきます。

そうなったときに、私が本当に帰るべきところはあるのでしょうか?もし無かったとしたら、私は死んでどこへいってしまうのでしょうか?見送った人もどこへ行ってしまったのでしょうか?

それに対してお釈迦さまは阿弥陀経の中で、阿弥陀仏の極楽浄土を教えておられます。

「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。」(仏説阿弥陀経)

(現代語版)

ここから西の方へ十万億もの仏がたの国々を過ぎたところに、極楽と名づけられる世界がある。そこには阿弥陀仏と申しあげる仏がおられて、今現に教えを説いておいでになる。

阿弥陀仏の浄土は、西にあると言われています。なぜ西なのかと言えば、西は太陽が沈む方向ということから全てのものが最後に帰する方向をあらわされています。どんな人でも死なない人はいませんが、またどんな人も最後帰るところが阿弥陀仏の浄土なのだと教えられています。そのため、親鸞聖人も阿弥陀仏の浄土に往生することを勧めておられます。

帰る地元がある人にとっては、地元があることは有り難いことです。しかし、本当に帰るべきところがあるということはもっと有り難いことです。それを教えられ、浄土へ往生する道を説かれたのが浄土真宗の教えです。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】新型コロナウイルスで変わること変わらないこと2020年04月11日 14:04

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

世界中で新型コロナウイルスによる感染者が増え続けています。当初は、暖かくなれば終息するのではと思っている人も多かったと思いますが、感染はどんどん広がり日本では東京オリンピックも1年延期となりました。

自覚症状が出ない感染者からの広がりもあり、誰が感染者かも分からないまま自分も感染しているのかもと思う生活がしばらく続くと思います。とはいえ、人類の流行病の歴史からいってもいつかは終息します。ただ、いつ終息するかは全く分かりません。

しかし、この新型コロナウイルスが流行する前と終息した後では大きく世の中が変わってしまうことでしょう。

その中で大きなものは人が人を信用できなくなるというものです。

これまでの社会は、大体のことは調べれば正解が見つかり、専門家に聞けば正しい情報を得ることができました。また、社会や知人などを信用してなりたってきたのがこれまでの世界でした。

それが、新型コロナウイルスに関しては、誰も正解が分からないので、どんな専門家の意見も頭から信じることができません。まして、専門家でもない人の意見は社会的に有名人であってもそれまでのように信じることが出来なくなりました。また、いろいろなデマも出回り、商品の一時的な品切れが起きたりもしました。そして、道行く見知らぬ人も、知人も「感染者なのでは?」と最初から疑ってかからなけれはならなくなり、最初から人を信じることができない社会になっていきます。

そのように社会は変わってしまうのではないかと感じています。一度そうなってしまうと、かつてのような社会には中々戻ることはできません。

しかし、時代や社会が変わっても、変わらず人を本当の意味で救うのが、真実の宗教です。

浄土真宗の「真宗」とは「真実の宗教」のことで、阿弥陀仏の本願の事を指して言われています。では、阿弥陀仏の本願とは何かといいますと、阿弥陀仏という仏様が「私を必ず救って捨てない」という本当の願いであり、そのように助けると呼びかけられる真の言葉が南無阿弥陀仏です。

それが、本当だったなと言われているのが、親鸞聖人の書かれた教行信証の以下のものです。

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誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行信証 総序)

−−−

摂取不捨の真言とは、私を摂めとってすてられてないという真実の言葉であり、南無阿弥陀仏のことです。超世希有の正法とは、この世を越えたふたつと無い正しき法の琴です。これを計らいなく聞き入れて、疑ったりためらってはならないと言われているのが、「聞思して遅慮することなかれ」の意味です。

人や人の言葉が信じられなくなっても、阿弥陀仏の本願は私を救うという真の言葉です。どうかみなさんも聞いて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】桜の花と親鸞聖人2020年04月01日 13:04

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

今年も桜の季節となって参りましたが、例年と異なり新型コロナウイルス対策で各地で花見の宴会は自粛されています。去る3月25日・26日は東京の桜の名所も封鎖された箇所が幾つもありました。

人は見なくても、桜は今年も咲いております。そして、いつの間にか散ってしまうのもまた桜です。

桜と言えば、浄土真宗では親鸞聖人が比叡山で出家をされる際によまれたと言われる歌が有名です。

それはこんな歌です。

「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」

親鸞聖人は、ひ孫である覚如上人によって書かれた「御伝鈔」によると1181年(養和元年)9歳の時に出家をされたと言われています。その時、比叡山で出家をする際には得度の式をしなければなりませんでした。比叡山・天台宗の座主も務められた慈円僧正のもとで出家をすることになったのですが、その日は都合が悪いので明日得度の式をしようという話になりました。その際に親鸞聖人が読まれたといわれているのが上記の歌です。

明日あると思っている桜も、夜に嵐が来るとあっと言う間に散ってしまいます。明日あると思っているうちにその日は来ないかも知れませんと訴えて、その日の内に得度の式をされたという伝承があります。

ぱっと咲いてぱっと散るのが桜の特徴です。そのはかない相から、世の無常をあらわす象徴として歌によく読まれています。人の命も同様に、気がついたら生まれていて、いつまでも生きているかのように思っていると、ある日ぱっと命が散ってしまいます。

親鸞聖人は、そういう人生を感じられて9歳で出家をされました。桜が必ず散るように、自分も必ず死んでいかねばなりません。変わらないものが何一つない無常の世界で、変わらぬさとりの道を求めて出家をされました。

私たちは、今日出家をするという人にあったことのある人は殆どないと思います。しかし、出家をしなくても命に限りがあるということに変わりはありません。桜の花は散れば土へと還っていきますが、私は死ねばどうなるのでしょうか。仏教では、それを生死といわれ生死は果てしなく続き止むことがないと教えられています。

その生死を出て離れる道を教えられたのが仏教です。その仏教を聞いて、どうか生死を離れた世界に出ていただきたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】昨今のコロナウイルス問題から思い出す御文章4帖目9通「疫癘」(2)2020年03月13日 09:03

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の続きです。

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当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。(御文章4帖目9通)

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流行病で多くの人が亡くなることに対する驚きに対して、蓮如上人は「さのみふかくおどろくまじきことなり」と言われています。

当時の人は、病気が流行する原因を、何かの祟りであったり、日の善し悪しに求めてそれを恐れる人も多くいました。しかし、仏教では縁起によって物事を説明されます。縁起とは、業を因として、それが結果として現れるのに縁となるものと合わさって、結果が出てくるというものです。その意味では、病気が因となって死と言う結果が現れたのではなく、生まれたことが因であって、病気は縁となり死と言う結果を表したということです。決して何かの祟りで人が死んだということはありません。

今回の新型コロナウイルスもそのうち終息していくことと思います。そうなれば、時間とともに今回の問題も忘れ去られていくことでしょう。しかし、病は死の縁でしかありませんから、今回のウイルスが終息したからといって死なくなったのではありません。

言い換えれば、病気の対策は出来ても、死ぬ対策はしないまま死を迎えるということです。必ず死なねばならない私にとって、生きることは期間限定のつかの間のことであり、死ぬことは分からないまま迎えなければならないものです。そうなると、生きることも死ぬこともどういう意味があるのか考えてしまいます。

それに対して浄土真宗では、阿弥陀仏の救いを教えられます。

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このゆゑに阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。かかるときはいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、極楽に往生すべしとおもひとりて、一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじきことなり。(同上)

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阿弥陀仏は、罪はどれほど深いものでも、一心に阿弥陀仏にまかせるものは、必ず救うという仏様です。その阿弥陀仏の「必ず救う」の仰せにまかせ、疑うこころ露ちりほどもない身になって浄土に往生する身になるのが、私が生きて死んでいく土台となるものです。

生きていくことも死んでいくことも、この浄土に往生するという土台があってどちらも有り難いものになっていきます。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】昨今のコロナウイルス問題から思い出す御文章4帖目9通「疫癘」(1)2020年03月03日 10:03

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

新型コロナウイルスの影響で、感染された方、亡くなられた方も出てきている状況です。予防の為の需要が高まり、マスクや消毒液の品不足が続いております。

多くの病気に対して治療薬が開発されている現代では、有効な薬がない新型ウイルスは大きな脅威として人々に不安を与えています。

こういう病気についての話を耳にすると思い出すのが、御文章4帖目9通の「疫癘」と言われる部分です。御文章は、蓮如上人(1415−1499)が御門徒に書かれたお手紙です。その手紙を通して御門徒に浄土真宗の教えを伝えていかれました。

その中でも今回紹介する4帖目9通「疫癘の章」は、当時流行病によって多くの方が亡くなったころに書かれたものです。

一部引用して紹介します。

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当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。(御文章4帖目9通)

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この当時、多くの方が流行病によって亡くなりました。しかし、流行病によって初めて人は死ぬのではありません。生まれた時より決まっていることなのです。だからそれほど驚くことではありません。

蓮如上人がこのお手紙を書かれたのは延徳四年です。死者が多く出たために年号を変えたほどでした。この頃は、医学研究も進んでおらず、このような大規模な病死者が出ると何かの祟りであると考えたり、あるいは日の善し悪しではないかと考える人がとても多かった時代です。そのためこのような疫病や自然災害が起きると年号を変えるということをよく行っていました。当時の人の不安はとても大きかったと思います。

それに対して蓮如上人は、「さのみふかくおどろくまじきことなり」そんなに驚くことではないといわれています。

それはなぜかと言えば、死ぬこと自体は生まれた時より決まっていることだからです。病気があって初めて人は死ぬのではなく、生まれたからには必ず死ぬと言うことです。

ただ、私たちは日ごろ死ぬということに驚かないどころか、忘れて生きているのが実態です。今回のような新型ウイルス問題が起きると、病気に感染するかどうかを不安に思う人はありますが、死ぬことに驚く人は多くありません。

死を間近に感じて当事者として死を考えた時にいろいろと浮かぶ不安や問題があります。それに対しての救いを説かれたのが仏教であり、浄土真宗です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】自分の絵に鬼の角をつけた浅原才市さん2020年02月14日 00:02

節分の鬼に関連して、もう一つ話をします。

浄土真宗の妙好人として有名な島根県の浅原才市さん(1850−1932)の肖像画についての話があります。

浅原才市さんは、いつも念仏を申して寺に熱心に通う人でした。また、性格もおだやかな方だったようでした。その才市さんが69才のとき、地元の画家が才市さんの絵を描いてくれました。完成した絵は、才市さんが座って有り難そうに合掌している絵でした。

周りの人は、とても才市さんに似ていると口々に言いました。しかし、当の才市さんは納得いきません。それは「自分はこんな仏様のような穏やかな顔をしている人間ではない。自分は何かあれば人を排除して亡き者にしようとする鬼のような心がある。」というものです。

そこで、才市さんは完成した絵に鬼の角をつけ足して書いてもらうことにしました。そして完成した絵を見て、これが自分の姿だと満足しました。

そこで、自分の姿を鬼だと聞くと、そういう目線で生きていくのは大変つらいことのように思います。しかし、浅原才市さんは念仏申しながらとても生き生きとした生活を送っていたようです。

「これ才市どこにおるか浄土もろうて娑婆におる、それがよろこびナムアミダブツ」

阿弥陀仏の本願通りに救われてみると、自分自身は浄土往生が定まる身となります。そのことを「浄土もろうて娑婆におる」と言われています。

自身が鬼であるということは変わりませんが、堪忍土ともいわれるこの娑婆世界がそのまま浄土往生する身として生きる場となります。

阿弥陀仏の本願は、私のような自分中心にしかものごとを捉えることが出来ない鬼のような者を救う為に建てられたものです。その私を現在ただ今救って浄土往生定まる身にして下さいます。鬼のような自分が生きているままが、浄土へ向かう人生となるのですから、生きることも有り難く、また死んでいくこともまた有り難いことだと言えるようになります。それを「それがよろこびナムアミダブツ」と言っています。節分で鬼を外に追いやらなくても、自分が鬼でも「浄土もろうて娑婆におる」という身に救われて下さい。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】節分の日「鬼は外」に思うこと2020年02月03日 00:02

2月3日は節分の日です。近年では、豆まきよりも恵方巻きを食べる日になっている感じもします。

それでも、全国各地で「鬼は外、福は内」の掛け声とともに豆まきが行われます。鬼を外に追い払い、福を内に呼び込もうというのが、その掛け声の意味です。

鬼は外と言って、鬼が外に出て行けばよいのですが、自分自身が鬼だとしたらどうでしょうか?

浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、ご自身の姿を振り返った和讃をいろいろと書き残されています。

一つ紹介します。

悪性さらにやめがたし

 こころは蛇蝎のごとくなり

 修善も雑毒なるゆゑに

 虚仮の行とぞなづけたる(悲歎述懐和讃)

我が身の悪性というのは全く止められることもなく、心は蛇蝎のような恐ろしい心しかない。また、善を修めても毒の雑じった善であるから、ウソ偽りの行と名づけられているというものです。

もちろん親鸞聖人は、ご自身を振り返って仰っていることであり、第三者から見てもこういう方だったということではありません。しかし、親鸞聖人に限らす自分自身をよくよく振り返ってみると人に明言できるほどまことの心をもっているとは言えないのが私です。

常に自己中心的にものごとを考えて、自分に反対する人間は排除しようとするのは鬼の姿です。その発想から、鬼を自分の家から排除しようというのが「鬼は外、福は内」です。

しかし、自分以外の鬼を外へ追いやり、福を内に招いたところで、自分自身が鬼であればやはり自分の家は鬼の住み家となってしまいます。鬼の姿では生きていても苦しいだけと思われるかもしれませんが、そういう私が救われる道を教えられたのが浄土真宗の救いである阿弥陀仏の本願です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
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