仏教ブログ

【仏教ブログ】18歳成人と自由について2022年04月16日 00:04

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

改正民法が2022年4月1日に施行され、成人年齢が20歳から18歳に引き下げられました。これによって、一気に成人となる現在18歳、19歳は230万人に上るそうです。

お酒やタバコ、公営ギャンブルはこれまで通り20歳からですが、いろいろな契約は親の同意なしにできることとなるので、消費者トラブルにまきこまれないかと懸念の声が上がっています。

「成人」という言葉は、文字通り「人と成る」と書きます。身心が発達して一人前になった人だとされています。しかし、私の時は20歳で成人でしたが、成人式があっても「一人前になりました」という感じはありませんし、今でもそれは変わりません。

とはいえ、成人となると「これからは自分の自由だ」と思う若者もいることと思います。確かに、法律上はそうなる部分もあります。

しかし、仏教で「自由」という言葉は、 「好き勝手にできる」という意味ではありません。

「独立自存であること」「解脱してなにものにもとらわれない境地。さとりの境地」の意味があります。

そういう意味では、成人になっても仏教で言う「自由」な人はほとんどいないことになります。保護者から独立したといっても、何よりも自分自身にふりまわされるのが私という人間です。

これを凡夫といわれます。凡夫というのは、煩悩に日々煩わされるものと教えられています。

親鸞聖人は、「凡夫」についてこのように教えられています。

ーーー

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず(一念多念証文)

ーーー

欲も多く、怒り、腹立ち、ねたむ心が多くそれらに振り回されて、それは臨終までとどまる事も消える事も絶えることもありません。そんな状態では、「自由」とは言い難いです。

ただ、そういう煩悩に振り回される私を、さわり無く救う仏様が阿弥陀仏です。ですから、親鸞聖人は「無碍光如来」ともいわれます。

ーーー

無碍と申すは、煩悩悪業にさへられず、やぶられぬをいふなり。(同)

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煩悩悪業に妨げられたり、破られない働きを「無碍」といわれます。その無碍光如来によって救われると、どれだけ煩悩があってもそれにさまたげられることなく浄土往生を遂げさせていただく身になります。

どんな状態であっても浄土往生定まる身にしていだくということは、なにものも妨げられないという意味で自由であり、ある意味での「成人」といえると思います。

年齢に関係なく、そうありたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】4月はお釈迦さまの誕生月2022年04月08日 00:04

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

4月8日は、お釈迦さまが誕生された日として、花まつりが開かれます。

お釈迦さまがお生まれになったときに、天の神々が祝福して甘露の水を降らせたということから、小さな釈迦像に甘茶をかけるのが灌仏会(かんぶつえ)です。

その誕生の際には、七歩歩かれて右手で天を、左手で地を指さして「天上天下唯我独尊」と言われたとされています。

「天の上にも天の下にも私だけが尊い」と自惚れるの意味として使われてもいますが、これは本来の意味ではありません。

迷いの世界(六道)から、一歩踏み出ることを七歩であらわされて、迷いから離れて解脱する。それが、私たち一人一人にとって唯一つの尊い事なのだといわれています。

そのように迷いを離れるといったことは、お釈迦さまのような立派な方だけのことのように思いますが、そうではありません。お釈迦さまは、自ら迷いを離れて仏のさとりを開かれましたが、その後は、人々が迷っていることとそこから離れる道を示していかれました。その教えが今日まで伝わっている仏教です。

お釈迦さまは、自らさとるだけでなく、人にもさとりへの道を伝えていかれました。それは、お釈迦さま一人が迷いから離れればそれでよいとはされなかったからです。

これは、今の私からすると、「お釈迦さまがさとりを開かれたからそれでよい」というものではありません。お釈迦さまに限らず、あの人は浄土に往生したといっても、「この私」が迷いから離れるかどうかは「この私」の問題です。

人間に生まれてきた「この私」が、迷いを離れることができると教えられたのが仏教です。特に浄土真宗は、どんな者でも迷いを離れ浄土往生の身に救われる道を教えられています。

お釈迦さまが誕生されたことを心から喜んで、迷いから離れる身になって頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】卒業ソング「さよならぼくたちのほいくえん」から人生卒業後の姿を思う2022年03月20日 00:03

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

卒業式によく歌われる卒業ソングというものがあります。

昔からよく歌われるのが「仰げば尊し」「蛍の光」「贈る言葉」ですが、最近では「3月9日」などいろいろな曲が歌われています。

どの曲も、これまでの歩みを振り返り別れを惜しみつつエールを送る内容となっています。

その中で、幼稚園保育園でよく歌われる「さよならぼくたちのようちえん(ほいくえん)」はそれらと

はまた違った内容となっています。

これまでの生活を振り返る内容に続き、

「さよなら ぼくたちのほいくえん ぼくたちの遊んだ庭

 このつぎ遊びにくるときは ランドセルの一年生」

と歌います。

いろいろな卒業ソングの中で、「このつぎ遊びにくる」というのは珍しいと思います。それも今度は幼稚園児ではなく、ランドセルの一年生になってまた来るというものです。

幼稚園を卒業した子供は、間違いなくランドセルの1年生になることからこういう明るい未来を歌詞にしてあるのだと思います。

私の人生の卒業には、それまでの人生を振り返り、別れを惜しむことも大切ですが、「このつぎ遊びにくる」といえるようなものであって欲しいと思います。

浄土真宗では、浄土に往生された方は必ずほとけのさとりを開きます、その後は、親兄弟、妻子を済度するためにそれらの人のいる世界に帰ってくると言われます。

そのことを歎異抄にはこのように言われています。

ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと

(歎異抄5条)

たとえ亡き父母がどんな世界でどんな姿に生まれていたとしても、そこまでいって再度するのだと言われています。

この世と別れるのは名残惜しくても、浄土に往生すると速やかに仏となってまた衆生済度に還ってくることを還相回向の働きと言われます。

生きているあいだに浄土往生する身になって頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】人生の卒業式2022年03月05日 00:03

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

3月は卒業のシーズンです。全国の幼稚園保育園、小中学校、高校大学で卒業式が行われます。

卒業式はお別れの行事なので、送る側も送られる側も色々と感慨深いものです。

自分が成長し、子供の親ともなりますと、子供の卒業式に出席し、送る側として過ごすようになります。その子供も社会に出ると卒業と縁遠くなるかもしれません。

しかし私の人生で考えると、人生の卒業に当たるのが、私の臨終であります。小学校なら6年間と決まった期間で卒業となります。それに対して人生はそのように決まった年数はありませんが、それでも寿命を迎えると人生の終わりになりす。これが臨終と言うものです。お葬式は人生の卒業式と言ってもいいかもしれません。

その意味では、歳を重ねるといろいろな人の人生の卒業式に立ち会うことになります。しかし、いつまでも見送られるばかりではありません。やがて自分が見送られる時が来ます。それが私の命が終わる時、私が臨終を迎える時です。

自分の卒業式では、その後の進路がはっきりしているときは明るい気持ちで迎えられますが、はっきりしていない時は不安になるものです。高校の卒業式では、大学合格発表待ちの人もあり、未来に対して不安な気持ちで卒業式を迎えることになります。

それでは、私の人生の臨終にはどんなことを思うでしょうか。

歎異抄第9条にはこのような親鸞聖人のお言葉があります。

なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。(歎異抄9条)

なごりおしく思うことがあったとしても、この世との縁が尽きて命が終わるときには、阿弥陀仏の浄土に参らせてもらうのだと言われています。

人生の卒業となったとき、いろいろと名残惜しく思う事はあっても、行くべきところは阿弥陀仏の浄土であるという身になって頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】「私がさびしいとき 仏さまはさびしいの」(金子みすゞ)に学ぶ2022年02月20日 00:02

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

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前回紹介した金子みすゞの詩についての続きです。

私がさびしいときに よその人は知らないの。

 私がさびしいときに お友だちは笑うの。

 私がさびしいときに お母さんはやさしいの。

 私がさびしいときに 仏さまはさびしいの。 

(金子みすゞ・さびしいとき)

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私の「さびしい」に共感してともに「さびしい」となって下さるのを、「慈悲」の「悲」といいます。「悲」はサンスクリット語のカルナーを訳されたものです。カルナーは元々の意味は「うめき」ともいわれ、他人の苦痛をわが事として苦しむことから、同情・共感の意味をあらわすようになりました。

そこで慈悲とはこのような意味で書かれています。

ーーー

慈悲 苦を除き楽を与えること。衆生をいつくしんで楽を与えること(与楽)を慈、衆生を憐れみいたんで苦を抜くことを悲という。(浄土真宗辞典)

ーーー

また、慈悲というのは苦しむ相手に対して、上から助けの手を下げるというものではありません。相手の苦しみを、自分の苦しみと感じるところから起こるものですから、「同体の慈悲」ともいわれます。

阿弥陀仏は、その慈悲から私の後生を救うという本願を建てられました。その本願に救われると、今度は阿弥陀仏がそれを喜ばれるのです。

蓮如上人の書かれた御文章には、このように書かれています。

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後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにそのひとを摂め入れておきたまふべし。(2帖目13通)

ーーー

阿弥陀仏が、後生たすけると私に呼びかけられることに対して、その仰せに従い救われると、阿弥陀仏は深く喜ばれて、八万四千という大きな光明を放って私をおさめ取って下さいます。

阿弥陀仏に救われた喜びというのは、私一人が喜んでいるのではありません。

「私がさびしいときに 仏さまはさびしいの。」ですから、

「私がうれしいときに 仏さまはうれしいの。」なのです。

さらに視点を逆転すると

「仏さまがうれしいときに 私はうれしいの。」

というのが、阿弥陀仏におさめ取られた喜びというものです。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】視点の逆転・金子みすゞ作品「さびしいとき」より2022年02月05日 00:02

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

2022年1月にNHK・Eテレで放送された100分de名著は金子みすゞ詩集がテーマとなっていました。

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「こだまでしょうか」「私と小鳥と鈴と」「大漁」などの詩で知られ、今も読み継がれる詩人・金子みすゞ(1903-1930)。小さな命の愛しさ、人間の孤独、生きることへの希望をうたった詩を500余篇書きましたが、26年の短い生涯で一冊も詩集は出版されませんでした。(100分de名著より引用

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番組でも紹介されていましたが、金子みすゞの作品の特徴の一つが「視点の逆転」です。そのうちの一つを紹介します。

私がさびしいときに よその人は知らないの。

 私がさびしいときに お友だちは笑うの。

 私がさびしいときに お母さんはやさしいの。

 私がさびしいときに 仏さまはさびしいの。 

(金子みすゞ・さびしいとき)

ーーーーー

ここでは、「私がさびしいときに」と続けて、別の人はどうなのかということを視点を変えて書いています。

日ごろ私たちは、特にさびしいときには、自分中心の視点でしか物事を考える事ができなくなってしまいます。また、他人の立場に視点を変えても「よその人は知らないの」「お友だちは笑うの」としかなりません。現在も、「さびしい」人は多くいると思いますが、私はそれを知りません。また友達に「いまさびしいんだよね」と打ち明けられても、時には「気にしすぎだよ」と笑ってすごしてきたこともあると思います。

親の立場になってみると「お母さんはやさしいの」となります。子供がさびしそうにしていると、お母さんは子供を心配してやさしく接してくれます。

仏さまの視点になってみるとどうでしょうか?「仏さまはさびしいの」と書いてあります。私がさびしい時に、同じく「さびしい」となって下さるのは仏さまだけです。

そのように、「私がさびしいとき」に「お前がさびしいときが私もさびしいとき」と思って下さる方があることで、初めて「さびしい」が抜き取られることが起きます。

これを「仏の慈悲」といいます。その慈悲は、視点を逆転して仏の視点から見てみると知らされます。

自分がさびしいところにばかり目が行くと、実はそれをご覧になっている仏さまがおられることに気がつかなくなってしまいます。視点を変えてみてください。仏さまの慈悲は私にかかっています。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】年始の計画に「必ず」はありますか?(2)2022年01月15日 00:01

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の続きです。親鸞聖人の和讃に「必ず」と書かれたものの一つについて書いていました。


(7)

生死の苦海ほとりなし

 ひさしくしづめるわれらをば

 弥陀弘誓のふねのみぞ

 のせてかならずわたしける(高僧和讃)

(現代語訳)

迷いの世界は苦しみばかりの海のように果てがない。(この海に)遠い過去より沈んでいる私たちを、阿弥陀如来の本願の船は、乗せて必ず渡してくださる。


年始の計画だけでなく、私たちの人生においては予測不可能な事の連続です。そのため、あれこれ考え対策をとっても、思わぬ形でそれが崩されると言うことがよくあります。

しかし、阿弥陀仏は本願で生死の苦海に沈む私を船に乗せて「必ず」渡すと言われています。本願がただの願い事であるならば、「必ず」とは言えません。では、なぜ「必ず」といわれるのかというと、その願いがその通りになるにはどうしたらよいかと長い間考えられ、その上で願った通りになるように行をされたからです。

これを「五劫思惟」「兆載永劫の修行」といわれています。「五劫」も「兆載永劫」もとても考えられないような長い時間をいわれています。それだけの時間をかけて考えられ、その上でそれが実現するように行を修めされました。

将棋の世界でも、人間ではすべてを読み切ることはできません。生死の海に沈んでいる私が、どうすればそこから抜け出ることができるかは、どれだけ考えても考えが及ばないところです。また、今年1年のことをどれだけ考えても「それは想定していなかった」ということが起きます。

阿弥陀仏は、私がどうなったとしても「必ず」救うにはどうしたらよいかということで、長い間考えられました。その結果として、その願いは「必ず助ける」という形で成就しています。

その本願を信じ念仏するものは、必ず浄土に往生させるというのが阿弥陀仏の本願です。阿弥陀仏の本願は、すでに「必ず」助けると成就しています。今年は、その本願を聞いて疑い無い身となって念仏し「必ず」浄土に往生する身とさせていただきましょう。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】年始の計画に「必ず」はありますか?(1)2022年01月01日 00:01

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

明けましておめでとうございます。

年も明けて一年の計は元旦にありと言う言葉もありますが、年始に当たっていろいろ計画を立てられる人もあると思います。

しかし昨今のコロナ禍のこともあり、考えても先が見通せないのが世の中だということがよく知らされます。そのように先の見通せない社会において、どうしたら先を見通すことができるのだろうといろいろな人の意見に耳を傾けることもあると思います。

先を読むということでいえば、将棋の世界では藤井聡太四冠が誕生し大いに盛り上がっています。この将棋は、81マスの盤上にお互いが駒を進めて戦わせる勝負です。プロの棋士ともなると何手も先までお互いの手を読んでいくわけです。実際、藤井聡太四冠は竜王戦の第四局で13手先の詰みを読み切って勝利しました。しかし、将棋は10の60乗以上の局面が現れるので全てを読み切ることはできません。

ところが昨今の機械学習の発展により、AIは人間をはるかに超える能力で先を読めるようになりました。将棋の対局中継では、一手指すごとにAIの解析によりどちらが優勢かが画面に表示されるようになりました。

とはいえ、AIも限られた計算能力での先読みなので完全にすべて先を見通せるわけではありません。

将棋も、私たちの人生にも先が見通せない以上「必ず」ということはいえません。ところが、浄土真宗では「必ず」という言葉が出てきます。それは、阿弥陀仏が私を救う事ができるという点では使われます。

親鸞聖人は「和讃」にこう書かれています。


(7)

生死の苦海ほとりなし

 ひさしくしづめるわれらをば

 弥陀弘誓のふねのみぞ

 のせてかならずわたしける(高僧和讃)

(現代語訳)

迷いの世界は苦しみばかりの海のように果てがない。(この海に)遠い過去より沈んでいる私たちを、阿弥陀如来の本願の船は、乗せて必ず渡してくださる。


年始の計画で、今年は必ず〇〇をするとは言い切れませんが。阿弥陀仏が私を必ず助けて浄土へ渡してくださるということは、阿弥陀仏からはいえます。

阿弥陀仏がいわれる通りに、私が「必ず」浄土へ参らせていただけるようになったという年になれば有り難いと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】除夜会について2021年12月15日 00:12

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

師走に入り、気ぜわしい時期となりました。今年は、11月まで例年に比べて暖かい日が続いたため、いつも以上にもう年末なのかと言う気持ちがします。

12月31日になると、除夜会が行われます。除夜の鐘をつくお寺も多くあるので、「鐘を突く集まり」と思われる方もありますが、今年一年を振り返って仏様への感謝の気持ちをあらわす法要となっております。新型コロナウイルスの影響で、全国的に今年も例年通り行われるかどうかはわかりません。

そこで、阿弥陀仏に感謝するといってもいまひとつぴんとこない人もあると思います。阿弥陀仏に対する感謝と何についてのことなのか。それについて感謝の思いが起きるのはこういうことなのだと言うことを教えられた親鸞聖人のお言葉を紹介します。

弥陀の名号となへつつ

 信心まことにうるひとは

 憶念の心つねにして

 仏恩報ずるおもひあり(浄土和讃)

(現代語訳)

弥陀の名号である南無阿弥陀仏を称えつつ、真実信心を得ている人は、如来の本願を憶念する心が常にあり、仏恩報謝の思いから自然に念仏が称えられるのである。

阿弥陀仏という仏様は、私を苦しみから救い浄土に往生させて仏にしてみせると誓われて、その通りに私を救おうとされています。その私を救おうという働きが、私の口から出てきてくださっているのが、南無阿弥陀仏と称える念仏です。

その南無阿弥陀仏と称えながら、私を救うおはたらきであると信じる人は、必ず浄土に往生し仏になる身に定まります。その救ってくださった阿弥陀仏に対して、途切れる事なく感謝の思いが続いていきます。その感謝の思いから念仏申すことを、仏恩報謝の念仏といいます。

また、一度阿弥陀仏に救われた上では、命のある間は私が必ず浄土に往生するまで摂取して捨てないと護って下さることについての感謝を一年振り返ってさせて頂く法要です。

今年を振り返り、ともにお浄土参りの年とさせて頂きましょう。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】年末大掃除・忘れているものはないですか?2021年12月01日 00:12

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

今年も早いもので一年も終わろうとしています。

年末に向けてそろそろ大掃除の準備をしようかと言う人も多いと思います。

大掃除になりますと、日ごろからあれを片付けなければならないなぁと思っていたものを思い切って掃除します。例えば台所の換気扇フードや冷蔵庫の中にある使わなくなった調味料、タンスの中の着なくなった服など、もう使わなくなったり、汚れているけれどもなんとなく面倒なのでそのままにしているものがあります。それらのものを一気に始末をするのが大掃除です。

最近では、断捨離や終活という言葉も定着し、大掃除に限らず不要なものを処分しようという人も増えています。それだけ、現代の私たちは生きていると色々と不要なものを抱えてしまいます。

元々体は一つで、一日は24時間しかありません。家にあるけれども、使わないものも増えてきます。使わない食器や、着なくなった服、二度と読み返さない本などいろいろなものに囲まれています。

それらを手放してすっきりした気持ちで新年を迎えるのはいいことだと思います。しかし、どれだけものを片づけたとしても、必要なものと思っているものでも、最後は全て手放すときがきます。そこで一番に片づけなければならないことは何でしょうか。

蓮如上人は御文章にこのように書かれています。

これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。(御文章1帖目11通)

一息切れた後生のことをよくよく考えなさいよと教えられています。そして、たよりにすべきは阿弥陀如来であるり、信心決定した上で参るのが浄土であるといわれています。

私の命もいつまでも続くものではありません。一番大事な私自身が、後生を迎えたらどうなってしまうのか。それを救って浄土に往生させると働いて下さっているのが阿弥陀如来です。

日ごろ片づけようと思ったものを片づけて心新たに新年を迎えることも大事なことですが、一番大事な私の後生を浄土参りとして頂き日々新たな気持ちで生きていきたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
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