仏教ブログ

【仏教ブログ】昨今のコロナウイルス問題から思い出す御文章4帖目9通「疫癘」(2)2020年03月13日 09:03

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の続きです。

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当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。(御文章4帖目9通)

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流行病で多くの人が亡くなることに対する驚きに対して、蓮如上人は「さのみふかくおどろくまじきことなり」と言われています。

当時の人は、病気が流行する原因を、何かの祟りであったり、日の善し悪しに求めてそれを恐れる人も多くいました。しかし、仏教では縁起によって物事を説明されます。縁起とは、業を因として、それが結果として現れるのに縁となるものと合わさって、結果が出てくるというものです。その意味では、病気が因となって死と言う結果が現れたのではなく、生まれたことが因であって、病気は縁となり死と言う結果を表したということです。決して何かの祟りで人が死んだということはありません。

今回の新型コロナウイルスもそのうち終息していくことと思います。そうなれば、時間とともに今回の問題も忘れ去られていくことでしょう。しかし、病は死の縁でしかありませんから、今回のウイルスが終息したからといって死なくなったのではありません。

言い換えれば、病気の対策は出来ても、死ぬ対策はしないまま死を迎えるということです。必ず死なねばならない私にとって、生きることは期間限定のつかの間のことであり、死ぬことは分からないまま迎えなければならないものです。そうなると、生きることも死ぬこともどういう意味があるのか考えてしまいます。

それに対して浄土真宗では、阿弥陀仏の救いを教えられます。

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このゆゑに阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。かかるときはいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、極楽に往生すべしとおもひとりて、一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじきことなり。(同上)

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阿弥陀仏は、罪はどれほど深いものでも、一心に阿弥陀仏にまかせるものは、必ず救うという仏様です。その阿弥陀仏の「必ず救う」の仰せにまかせ、疑うこころ露ちりほどもない身になって浄土に往生する身になるのが、私が生きて死んでいく土台となるものです。

生きていくことも死んでいくことも、この浄土に往生するという土台があってどちらも有り難いものになっていきます。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】昨今のコロナウイルス問題から思い出す御文章4帖目9通「疫癘」(1)2020年03月03日 10:03

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

新型コロナウイルスの影響で、感染された方、亡くなられた方も出てきている状況です。予防の為の需要が高まり、マスクや消毒液の品不足が続いております。

多くの病気に対して治療薬が開発されている現代では、有効な薬がない新型ウイルスは大きな脅威として人々に不安を与えています。

こういう病気についての話を耳にすると思い出すのが、御文章4帖目9通の「疫癘」と言われる部分です。御文章は、蓮如上人(1415−1499)が御門徒に書かれたお手紙です。その手紙を通して御門徒に浄土真宗の教えを伝えていかれました。

その中でも今回紹介する4帖目9通「疫癘の章」は、当時流行病によって多くの方が亡くなったころに書かれたものです。

一部引用して紹介します。

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当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。(御文章4帖目9通)

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この当時、多くの方が流行病によって亡くなりました。しかし、流行病によって初めて人は死ぬのではありません。生まれた時より決まっていることなのです。だからそれほど驚くことではありません。

蓮如上人がこのお手紙を書かれたのは延徳四年です。死者が多く出たために年号を変えたほどでした。この頃は、医学研究も進んでおらず、このような大規模な病死者が出ると何かの祟りであると考えたり、あるいは日の善し悪しではないかと考える人がとても多かった時代です。そのためこのような疫病や自然災害が起きると年号を変えるということをよく行っていました。当時の人の不安はとても大きかったと思います。

それに対して蓮如上人は、「さのみふかくおどろくまじきことなり」そんなに驚くことではないといわれています。

それはなぜかと言えば、死ぬこと自体は生まれた時より決まっていることだからです。病気があって初めて人は死ぬのではなく、生まれたからには必ず死ぬと言うことです。

ただ、私たちは日ごろ死ぬということに驚かないどころか、忘れて生きているのが実態です。今回のような新型ウイルス問題が起きると、病気に感染するかどうかを不安に思う人はありますが、死ぬことに驚く人は多くありません。

死を間近に感じて当事者として死を考えた時にいろいろと浮かぶ不安や問題があります。それに対しての救いを説かれたのが仏教であり、浄土真宗です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
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   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】自分の絵に鬼の角をつけた浅原才市さん2020年02月14日 00:02

節分の鬼に関連して、もう一つ話をします。

浄土真宗の妙好人として有名な島根県の浅原才市さん(1850−1932)の肖像画についての話があります。

浅原才市さんは、いつも念仏を申して寺に熱心に通う人でした。また、性格もおだやかな方だったようでした。その才市さんが69才のとき、地元の画家が才市さんの絵を描いてくれました。完成した絵は、才市さんが座って有り難そうに合掌している絵でした。

周りの人は、とても才市さんに似ていると口々に言いました。しかし、当の才市さんは納得いきません。それは「自分はこんな仏様のような穏やかな顔をしている人間ではない。自分は何かあれば人を排除して亡き者にしようとする鬼のような心がある。」というものです。

そこで、才市さんは完成した絵に鬼の角をつけ足して書いてもらうことにしました。そして完成した絵を見て、これが自分の姿だと満足しました。

そこで、自分の姿を鬼だと聞くと、そういう目線で生きていくのは大変つらいことのように思います。しかし、浅原才市さんは念仏申しながらとても生き生きとした生活を送っていたようです。

「これ才市どこにおるか浄土もろうて娑婆におる、それがよろこびナムアミダブツ」

阿弥陀仏の本願通りに救われてみると、自分自身は浄土往生が定まる身となります。そのことを「浄土もろうて娑婆におる」と言われています。

自身が鬼であるということは変わりませんが、堪忍土ともいわれるこの娑婆世界がそのまま浄土往生する身として生きる場となります。

阿弥陀仏の本願は、私のような自分中心にしかものごとを捉えることが出来ない鬼のような者を救う為に建てられたものです。その私を現在ただ今救って浄土往生定まる身にして下さいます。鬼のような自分が生きているままが、浄土へ向かう人生となるのですから、生きることも有り難く、また死んでいくこともまた有り難いことだと言えるようになります。それを「それがよろこびナムアミダブツ」と言っています。節分で鬼を外に追いやらなくても、自分が鬼でも「浄土もろうて娑婆におる」という身に救われて下さい。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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【仏教ブログ】節分の日「鬼は外」に思うこと2020年02月03日 00:02

2月3日は節分の日です。近年では、豆まきよりも恵方巻きを食べる日になっている感じもします。

それでも、全国各地で「鬼は外、福は内」の掛け声とともに豆まきが行われます。鬼を外に追い払い、福を内に呼び込もうというのが、その掛け声の意味です。

鬼は外と言って、鬼が外に出て行けばよいのですが、自分自身が鬼だとしたらどうでしょうか?

浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、ご自身の姿を振り返った和讃をいろいろと書き残されています。

一つ紹介します。

悪性さらにやめがたし

 こころは蛇蝎のごとくなり

 修善も雑毒なるゆゑに

 虚仮の行とぞなづけたる(悲歎述懐和讃)

我が身の悪性というのは全く止められることもなく、心は蛇蝎のような恐ろしい心しかない。また、善を修めても毒の雑じった善であるから、ウソ偽りの行と名づけられているというものです。

もちろん親鸞聖人は、ご自身を振り返って仰っていることであり、第三者から見てもこういう方だったということではありません。しかし、親鸞聖人に限らす自分自身をよくよく振り返ってみると人に明言できるほどまことの心をもっているとは言えないのが私です。

常に自己中心的にものごとを考えて、自分に反対する人間は排除しようとするのは鬼の姿です。その発想から、鬼を自分の家から排除しようというのが「鬼は外、福は内」です。

しかし、自分以外の鬼を外へ追いやり、福を内に招いたところで、自分自身が鬼であればやはり自分の家は鬼の住み家となってしまいます。鬼の姿では生きていても苦しいだけと思われるかもしれませんが、そういう私が救われる道を教えられたのが浄土真宗の救いである阿弥陀仏の本願です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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【仏教ブログ】成人の日に読みたい金子みすゞの「さびしいとき」2020年01月15日 00:01

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

1月半ばになると、成人式が各地で行われニュース報道で、あるいは親戚や知人の話で見聞きします。

成人とは、一人前の人間になったことを意味する言葉です。

私も成人を迎えた頃は、これで自分も一人前だと思っていました。しかし、成人式を経て随分と年月を重ねてみても自分が一人前の人間になったかと問われれば、そうではないという他はありません。それは、一人前の人間というイメージは、一人で立ってなんでも生きていける人間を想像するからです。

確かに、年を重ねると自分で自分の生活を建てていかねばなりません。それでも、心の拠り処なしには人間は生きていくことはできません。

そこで今回は、詩人・金子みすゞさんの「さびしいとき」という詩を紹介します。

さびしいとき

わたしがさびしいときに、よその人は知らないの。

わたしがさびしいときに、お友だちはわらうの。

わたしがさびしいときに、お母さんはやさしいの。

わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。

生きているととさびしいと感じる時があります。そんな時に、自分と縁のない他人はそんなことは知りません。友達は、さびしいときにいつも共感してくれるわけでなく、そんな気持ちも知らずに笑っています。お母さんは、さびしい気持ちを察して優しくしてくれます。最後に、仏様は一緒にさびしい思いになって下さるという詩です。

経済的に自立していくようになると、何でも一人で出来るような気持ちになる時もあります。しかし、食べて行きけるようになっただけで、誰の支えも必要ないような立派な人になったということではありません。さびしき時に心の支えになる人もありますが、ともにさびしい心になって下さるのが仏さまです。

人の苦しみを、自分の苦しみとして感じて下さるだけでなく、その苦しみを何とか抜いてやりたいというのが仏さまの慈悲という心です。自分で気がつかなくても、そういう仏様の慈悲に支えられて生きているのが私たちです。そういう意味ではいつまでも成人とはならず、支えられて生かされていくのが私というものです。

成人の日を迎える方も、すでに成人の方も、自分を支えて下さる存在に目を向けて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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【仏教ブログ】蓮如上人の年始の挨拶は「念仏申さるべし」2020年01月01日 00:01

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

年が明けて、年始の挨拶をお互いするときに「明けましておめでとうございます」「今年も宜しくお願いします」と言う方が多いと思います。

浄土真宗の中興の祖といわれる蓮如上人(1415〜1499)はそうではなかったことが、御一代記聞書に書き残されています。御一代記聞書とは、蓮如上人の言行録として後に書き残されたものです。

その最初に以下のように書かれています。

「一 勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人仰せられ候ふ。道徳はいくつになるぞ。道徳念仏申さるべし。」

道徳というのは、蓮如上人からお話しを続けて聞いている門徒の方です。明応二年の元旦に蓮如上人のところへ行って年始の挨拶に伺ったところ、蓮如上人がこのように言われました。

「道徳は、今年で何歳になった?道徳、念仏を称えなさい」

この頃は、年が変わると年齢が一つ増えるので最初の「道徳はいくつになるぞ」は私たちでもよく使います。年始にあった親戚の子供や孫に「何歳になった?」と聞く人も多いと思います。

しかし、蓮如上人は「念仏を称えなさい」と言われています。こう聞くと、「正月早々念仏とは……」と思う方もあるかもしれません。それは念仏について葬式や法事の時のイメージが強いからだと思います。

ここで蓮如上人は念仏について、自力の念仏と他力の念仏について続けて話をされています。まとめて書きますと、自力の念仏とは念仏を称えることでなんとか仏様に助けてもらおうという祈願の心でするものです。それに対して他力の念仏とは、阿弥陀仏が助けるとの仰せを聞き入れた上で、助けていただいた有り難さ尊さを喜んで申すものです。そのまま臨終まで続いて、浄土往生をするものが他力の念仏です。

私たちが日ごろ称える念仏は、どちらの念仏でしょうか?蓮如上人は、他力の念仏を勧めておられます。そのことが、よく分かるのが今回紹介した御一代記聞書です。

「年始早々」という言葉は、正月くらいはいろんなことはお休みしましょうという意味で使われますが、蓮如上人には年末も年始も変わらず「念仏申さるべし」と思い続け、勧めておられました。そのため年始早々から「道徳、念仏申さるべし」で挨拶をされています。

そのように、阿弥陀仏に助けて頂いて、有り難いことだと念仏申す身になって頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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【仏教ブログ】会者定離と倶会一処2019年12月31日 12:12

光顔寺納骨堂のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

今年も師走となり、年賀状の準備に忙しい方もあると思います。毎年、何人かの方から喪中につき年賀お断りのハガキを頂きます。その中にしばらく会っていなかった方の家族からハガキが来て、初めてその方にはもう会えないと知る場合もあるでしょう。会者定離とはいえ、実際にそういう場面になるとなんとも寂しい気持ちになります。

では、離れ離れになった人とはもう二度と会うことが出来ないのでしょうか?浄土仏教では、再び会える場所が有ると教えられています。それが、浄土です。阿弥陀経には「倶会一処」と説かれています。

こちらがその部分です。

舎利弗。衆生聞者。応当発願。願生彼国。所以者何。得与如是。諸上善人。倶会一処。

「舎利弗、衆生聞かんもの、まさに発願してかの国に生ぜんと願ふべし。ゆゑはいかん。かくのごときの諸上善人とともに一処に会することを得ればなり。」

現代文

舎利弗よ、このようなありさまを聞いたなら、ぜひともその国(浄土)に生れたいと願うがよい。そのわけは、これらのすぐれた聖者たちと、ともに同じところに集うことができるからである。

もちろん死んだ人がすべて浄土に往生しているわけではありません。

阿弥陀仏の本願念仏に救われた人は必ず浄土に往生します。そして、同じように阿弥陀仏の本願念仏に救われた人はともに同じ浄土に往生するので「倶会一処(ともに一つのところで会う)」と説かれています。すでに先立った人が、浄土に往生されていれば、次に浄土往生する人にとっては別れとはしばしの間のことで、永遠の別れではありません。

阿弥陀仏の本願はすべての人を浄土に生まれさせるというものです。そのために、具体的に現れてくださったのが南無阿弥陀仏です。本願を信じ、南無阿弥陀仏を称えるものを必ず浄土に生まれさせるというのが阿弥陀仏の願いです。その阿弥陀仏の本願を聞いて信じ浄土往生する身に救われて下さい。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】~祖母の死に思う~盛者必衰会者定離。2019年12月05日 12:12

光顔寺納骨堂のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

先日、祖母が96歳で亡くなりました。死因は老衰でした。8年前より特別養護老人ホームに入り、特別な病気もなく元気だった祖母でしたが、いわゆる寄る年波には勝てずに亡くなりました。今回の祖母の死を縁として改めて知らされたのは、特別な病気や事故に遭わなくても人は必ず死ぬということでした。

老衰の症状というのは人によって異なる点もあると思いますが、私の祖母の場合は徐々に食べ物を受け付けなくなり、やがてほとんど食べなくなり、栄養状態が悪くなった結果死に至るというものでした。主治医も「病気なら薬を投与するという対応策もあるけれど、病気でもなく死んでいく人には対処する方法がない」と言っていました。確かに、どれだけ医学が進歩しても老衰を止める薬はでないようです。

そこで思い出すのは以下の御文章の一節です。

蓮如上人が書かれた御文章の2帖目7通にこのように書かれています。

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たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。

−−

大まかな意味を書くと、たとえどれだけ名声や経済的成功をしたとしても、盛んなるものは必ず衰え、会うものは必ず別れるのが世のならいであるならば、いつまでも続くものではありません。ただ、50年・100年の間のことです。それに加えて「老少不定(死ぬ順番は年齢順ではない)」と聞く時は、本当にたよりになるものはありません。こういうことから、今生きている人は、他力の信心を獲て浄土往生を遂げて頂きたいと思うばかりです。

いつまでも生きていられる人はいない以上、いつかは別れる時が来ます。どれだけ健康だと言っていても、死ななくなるのではありません。私の祖母も病気らしい病気もないまま老衰で亡くなりました。それに老少不定の世の中ですから、年をとったものから順番に死んでいくのではありません。

だからこそ、浄土真宗では他力の信心をえて浄土往生を遂げなさいと進められています。

死ぬことは、ただこの世を終わった行くのではなく浄土に往生するご縁となるので、死ぬこともまた有り難いご縁となります。そういう教えと知って、仏教の教えを聞いて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】死ぬことが悪い理由を剥奪説から考える2019年11月28日 18:11

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

人はいつかは死なねばなりません。

そして人は死ぬことをついて大変恐ろしく思います。また、死ぬことは悪いことだと考える人も多いです。では、死ぬことの何が悪いのでしょうか?

最近話題の本で、以下ものがあります。

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義(シェリーケーガン著)

著者はアメリカの大学で講義をもっている哲学者です。その著者が言うところによると、死が悪いのは、「剥奪されること」によるものだと言っています。

これを剥奪説と言いますが、剥奪というのは生きていれば得られたかもしれない幸せを死によって奪われる事を表しています。確かに生きていれば、いいこともあります。それが失われるから死が悪いというのものです。

しかし、多くの自殺をする人は、生きていてもこれより幸せな事は起きるはずがないと思って自殺をしています。そういう人に対してこのような説明はあまり意味がないことになってしまいます。

では、生きていれば本当に良いことがあるのでしょうか。それがあると教えられているのが仏教です。特に浄土真宗では、生きている間に浄土往生する身に救われると教えられています。その救いは「阿弥陀仏の本願」によってなされるものです。有名な歎異抄では、それを「弥陀の誓願」といわれています。

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。(歎異抄第1条)

(現代文)

阿弥陀仏の誓願の不可思議なはたらきにお救いいただいて、必ず浄土に往生するのであると信じて、念仏を称えようという思いがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明の中に摂め取って決して捨てないという利益をお与えくださるのです。

この阿弥陀仏の救いは現在生きているときのものです。死んだ後では間に合いません。生きている時に、この阿弥陀仏の救いにあうということがありますので、それが剥奪されるという意味では死ぬことは悪いことになります。

しかし、一度浄土に往生する身になれば、死ぬこともまた浄土に往生するご縁となるのでまた有り難いものと変わっていきます。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】看取り士さんから聞いたこと2019年11月17日 16:11

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

最近、特別養護老人ホームに入っている祖母(96歳)が看取り介護になりました。看取り介護とは、その施設では医者の判断で治療のしようがない状態になった入居者に対して、家族の同意のもとに行われるものです。

内容は、痛み止めを除く延命治療を行わない。残された時間に、本人や家族が望むことを出来るだけ叶える為に対応するということでした。それにあたって施設のスタッフから、本人が最後に行きたいと思っている場所や、食べたいものは何でしょうかと細かく聞かれました。

私はその施設に看取り介護というものがあるのを初めて知り、看取り士の資格をもっている友人に看取りとは何でしょうかと聞いてみました。

看取りの現場で一番大事なことは、看取る側が看取られる人に対して感謝の気持ちを実際に口に出して伝えることだと言われました。兎角身内ほど、面と向かって「有り難う」とはなかなか言いにくいものです。しかし、親であればその親がいなければ今の自分は間違いなく存在していません。感情的にうまくいかない場合もありますが、全くの一人では人間生まれてくることもできませんし、生きていくこともできません。お互いがいなければ、お互いは存在しないという関係性に感謝することで、看取る側も看取られる側も、その感謝の気持ちで平等で同じ気持ちになれるとのことでした。

仏教では、いろいろな苦しみを分けられて「四苦八苦」といわれます。

その内に、愛別離苦というのがあります。文字通り、愛するものと別離する苦しみを言われたものです。「会うは別れの始め」という諺もありますが、出会った人とはいつかは必ず別れなければなりません。中でも一番大きな別れは、死別です。そして多くの場合は、その人の死に目に立ち会うことはできません。それが、葬儀の場での身内や友人の悲しみの原因の一つとなっています。

では、なぜそうなるのかと言えば、いつも思っていても言葉にできなかったことがあるからです。伝えられなかったことがあるからです。それが出来ないと思うからつらく悲しい思いをします。それを生きている間に言葉にして伝えましょうというのが、看取り士の方が勧められることでした。

そうして送り出す側は、伝えたいことを伝えて安心もできます。送られる人は、残していく人への後悔はなくなるとことでしょう。

そこで、考えなければならないのは、ではそうやって看取る側の私もいつかは誰かに看取られる側になるということです。そのとき私はどうなってしまうのでしょうか?避けられない死を前に、本当にすべきことを教えられたのが仏教です。

どうか、仏様の教えを聞いて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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