仏教ブログ

【仏教ブログ】煩悩の鬼はそのまま 他力をたのむ2021年02月16日 00:02

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の記事の続きです。

煩悩に縛られて、六道を輪廻するのが凡夫です。その凡夫である私は、煩悩がある限りは六道を離れることは出来ないことになります。ところが、その煩悩は死ぬまでなくならないと親鸞聖人は仰います。

では、阿弥陀仏はどうやってそのような私を救って浄土に生まれさせると言われているのでしょうか?

歎異抄にはこのように書かれています。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。(歎異抄第3条)

煩悩具足というのは、煩悩に手足を付けたようなものという意味です。煩悩そのものといっていい私は、どのようなことをしたとしても生死を繰り返す輪廻を離れることができません。それを阿弥陀仏は憐れにおもって、その私を救うという本願を建てられました。

そのため、煩悩具足のものを仏にするのが阿弥陀仏が本願を建てられた本当の心ですから、他力をたのむ悪人が浄土に往生できるのだと書かれています。

ここで、「他力をたのみ」と言われています。煩悩具足の私には、煩悩を無くしたり減らすことによって浄土に往生することはできません。そこで阿弥陀仏は「他力をたのめ」といわれます。「他力」とは、阿弥陀仏の本願力のことをいいます。阿弥陀仏が私を救う為に建てられた本願が、その通りになるように働いている力のことをいいます。

その他力(本願力)は、目には見えませんがただ今も私に働き掛けられています。具体的には南無阿弥陀仏となって働いています。私が南無阿弥陀仏と称える念仏は、全て阿弥陀仏の本願力が私の口から現れているのだと教えられます。では南無阿弥陀仏とは、どう私に働いているのかといいますと「我をたのめ必ず救う」と呼びかけられています。その呼びかけの通りに、まかせることを、他力をたのむといいます。

煩悩という鬼はそのままに、他力をたのむ人は必ず浄土に往生させるというのが阿弥陀仏の救いです。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】自らの胸の中の鬼は追い出せるのか?2021年02月02日 00:02

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

2月2日は節分の日です。「鬼は外、福は内」と言って豆まきがなされています。今年は、コロナ禍で行事そのものを中止にするところも多く、各家庭でされるという方も多いと思います。

鬼とは、地獄の獄卒のイメージが強いので、自分以外のところに鬼は存在すると思いがちです。しかし、それら鬼を自分自身心の中に見いだすこともあります。その場合は、青鬼は貪欲、赤鬼は瞋恚、黒鬼は愚痴のことだと言う人もあります。

そうやって鬼を自らの煩悩に喩えた場合、この鬼を果たして追い出すことが出来るでしょうか?

答えは、追い出すことは出来ないと親鸞聖人は言われています。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。(一念多念証文)

私たちのことを「凡夫」といわれています。凡夫とは、煩悩に縛られて六道を輪廻する者のことを言われています。その凡夫というものは、無明煩悩が身に充ち満ちて、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみねたむ心多く途切れる隙もありません。そして、臨終を迎え、息の切れる時までそれら煩悩は、止まらず、消えず、絶えずと水火二河のたとえに顕されていると言われています。

欲の心にしろ、怒りの心にしろ、それらは死ぬ時まで止まることもなく、消えたり、減ったりすることもありません。年を重ねると、それらが少し落ちついたかのように思う人もありますが、それは煩悩をかき立てる縁が少なくなっただけで、縁さえあればどのような心も起きてきます。元々持ち合わせているものは減ることも無いので、どれだけ「鬼は外」と豆をまいても、心の中の鬼は出て行くどころか、減ることもありません。

では、そんな心の鬼を抱えたままで、どうやって六道を離れて浄土に往生することができるのでしょうか?煩悩という鬼はそのままに、私を救って下さるのが阿弥陀仏の救いです。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】「密」を避ける昨今ですが、とても親密なのが阿弥陀仏です22021年01月15日 00:01

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の記事の続きとして書きます。

阿弥陀仏と私は疎遠な関係ではなく、親密な関係です。念仏するものを、摂め取って捨てることはありません。それについて「親縁」ということについて書かれたのが、前回紹介した善導大師の「散善義」のお言葉です。「親縁」とは親しい関係ということです。

一には親縁を明かす。衆生、起行して口に常に仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまう。身に常に仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまう。心に常に仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまう。衆生、仏を憶念すれば、仏もまた衆生を憶念したまう。

彼此の三業、あい捨離せず(彼此三業不相捨離)。故に親縁と名づくるなり。(定善義)

私が口に南無阿弥陀仏と申すと、いつどこで何回称えたとしてもその全てを阿弥陀仏は聞いておられます。私が阿弥陀仏をいつどこで合掌礼拝しても、阿弥陀仏はそのすべてを見ておられます。私が心に阿弥陀仏をいつどこで念じても、阿弥陀仏はその全てを知っておられるます。

私が阿弥陀仏を思えば、阿弥陀仏もまた私を思っておられます。

このように阿弥陀仏(彼)と私(此)の体の行い、口から出る言葉、心で思うこと(三業)は互いに捨てたり離れることがありません。こういうことから「親縁」といわれます。

人間同士だと、何かを思ったとしても口に出さねば相手に伝わることはありません。また、仮に言葉にしたとしても部屋で一人つぶやいても相手は知ることはありません。相手に近づいて言葉にしないと私の思いは伝わることはありません。

「密」を避けようという昨今では、身体的な距離も、心理的な距離も感じる場面が増えてきました。しかし、阿弥陀仏は南無阿弥陀仏と私に呼びかけられています。その南無阿弥陀仏とは、われをたのめ、必ず救うという阿弥陀仏の救いの喚び声です。

その南無阿弥陀仏を私が聞いて疑い無いことを信心といいますが、その上で、私と南無阿弥陀仏は常に離れずともにあることになります。どんなに一人だと思っても、念仏の摂め取って捨てられません。私を決して一人にしておかれないのが阿弥陀仏です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】「密」を避ける昨今ですが、とても親密なのが阿弥陀仏です2021年01月01日 00:01

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

年も改まりましたが、昨年来のコロナ禍はいまだ先行きは不透明なままです。それを受けて、2020年のユーキャン新語・流行語大賞は「3密」でした。また2020年の今年の漢字は「密」でした。

新型コロナウイルス感染対策ということで、マスクを着用して人との距離を取るのもすっかり定着してから10ヶ月近く建ちました。以前からの知り合い通しでも、マスクを外して話をしたことがない人が多いです。同居している家族以外は、今まで通りのコミュニケーションが取れなくなりました。

人は孤独な存在ですから、なおさら「密」を避けましょうと言われると、親密な関係の有り難さが知らされます。年末年始に、子供や孫が帰省してこれなくなったことで、それを感じた方も多いのではないかと思います。

家族や知人でも以前より遠いなったような昨今ですから、仏様と聞いてもなおさら自分から疎遠な存在のように思われる人も多いかもしれません。しかし、そうではありません。浄土真宗では、阿弥陀仏と私は大変親密な関係なのだと教えられています。

それが「彼此三業不相捨離(彼此の三業、あい捨離せず)」という善導大師のお言葉です。これは、蓮如上人の書かれた御文章にも引用されています。(3帖目7通)

以下、善導大師の書かれた文章を引用します。

一には親縁を明かす。衆生、起行して口に常に仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまう。身に常に仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまう。心に常に仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまう。衆生、仏を憶念すれば、仏もまた衆生を憶念したまう。

彼此の三業、あい捨離せず(彼此三業不相捨離)。故に親縁と名づくるなり。(定善義)

簡単にいうと、私が阿弥陀仏を念じることも、手を合わせて礼拝することも、口で南無阿弥陀仏と念仏することも、すべて阿弥陀仏は知っておられるということです。

決して疎遠ではなく、大変親密な関係なのが、阿弥陀仏と私の関係です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】病気になったらどんな気持ちになりますか?(御文章「秋去り春去り」の続き)2020年12月15日 01:12

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の蓮如上人の書かれた御文章4帖目13通「秋去り春去り」について、もう一つ引用してみます。

蓮如上人はこの御文章を書かれた当時は84歳、しかもいろいろな病気にかかり体調も思わしくありません。

そこで病気のことについてこのように書かれます。

−−

これによりて法然聖人の御ことばにいはく、「浄土をねがふ行人は、病患を得てひとへにこれをたのしむ」(伝通記糅鈔)とこそ仰せられたり。

−−−

法然聖人のお言葉に「浄土を願う行人は、病気になるとこれを楽しむ」というのがあります。

普通は、病気になると「死ぬのでないか」「死ぬのは困る」と思うのですが、「浄土行きが定まった人」は病気を楽しむのだといわれます。「いよいよお浄土に参れる時が近づいた」という意味でいわれています。

しかし、自分はそうではないと蓮如上人は続いて以下のように書かれます。

−−−

しかれども、あながちに病患をよろこぶこころ、さらにもつておこらず。あさましき身なり。はづべし、かなしむべきものか。さりながら予が安心の一途、一念発起平生業成の宗旨においては、いま一定のあひだ仏恩報尽の称名は行住坐臥にわすれざること間断なし。

−−−

しかし、この私(蓮如上人)は病気を喜ぶ心はまったく起こらない、浅ましい我が身であると恥ずかしく、悲しく思います。とはいえ、私の信心については、平生に往生が定まり、仏恩報謝の称名念仏は、いつでもどこでも忘れず称え続けております。

病気になった時、どんな気持ちになろうとも、信心決定の上で往生は一定という点は変わりません。

今年はコロナ禍で、病気を恐れる一年でしたが、「病気にかかったらどうしよう」「かかった時の心構え」も大事ですが、一番大事なのは、どんな病気にかかり、どんな気持ちになっても浄土往生を遂げる身になることです。

今年はいろいろあったけれども、一番は私の浄土往生がさだまったことだとお互いいって来年を迎えたいところです。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】今年書かれたような御文章「秋去り春去り」(4帖目13通)2020年12月01日 01:12

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

12月となり、今年も残すところ僅かとなりました。例年にないコロナ禍で、生活が大きく変わった人も多いと思います。しかし、過ぎて見ると本当にあっという間だったと感じます。人はいつ死ぬか分からないというのを改めて感じた年でした。

そういう今年に書かれたような御文章がありますので紹介します。

蓮如上人の書かれた御文章4帖目13通「秋去り春去り」です。

この御文章は、蓮如上人の最晩年に書かれたものです。

−−

そもそも人間界の老少不定のことをおもふにつけても、いかなる病をうけてか死せんや。かかる世のなかの風情なれば、いかにも一日も片時もいそぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定して、そののち人間のありさまにまかせて、世を過すべきこと肝要なりとみなみなこころうべし。

−−

人間の世界は、年寄りから先に死んでいくとは決まっておらず、若い人が先に死ぬこともよくあります。そんな世の中ですから、どんな病気になって死ぬかわかりません。このような世の中の様子ですから、一日も少しでも急いで信心決定して、この度の往生極楽を定めて、その上で人間のありさまにまかせて、この世を過ごしていくことが大事であるとこころえて下さいと書かれています。

11月頃から再び新型コロナウイルスの感染が拡大しています。如何に感染しないかで、マスクを付けたり人ごみを避けたりということが続いた一年でした。しかし、新型コロナウイルスに感染をしなくても、どんな病気にあって死ぬか分かりません。

だから、「一日も片時もいそぎて信心決定して」といわれます。いよいよ死んで浄土往生を遂げるには、生きている間に信心決定の身になっていなければ出来ないからです。

南無阿弥陀仏にまかせ、信心決定した上で今年を終えていきたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】紅葉と仏教2020年11月16日 00:11

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

11月ともなると、朝晩もすっかり冷え込んで来ました。日中と夜の寒暖の差が大きくなると紅葉のシーズンです。

秋の観光といえば、紅葉狩りです。春の花見と並んで、両者に共通しているのは、「その時しか見られない」点です。言い替えると春の桜も、秋の紅葉も最後は散ってしまいます。そこに、いろいろと感じるところがあります。

その意味で、春の花見に比べて、秋の紅葉狩りはなんとなく淋しさが漂います。それは、紅葉というものが満開の桜に比べて、人生での終盤を感じさせるからではないかと思います。

かくいう私も、10代、20代のころは春の花見と秋の紅葉狩りを比べたならば、断然春の花見の方が好きでした。満開の桜というのは、いわば桜にとっての一番きれいな瞬間であり文字通り華があります。それに対して、紅葉は葉っぱの色が変わっただけというように思っていました。しかし、40代になったころから紅葉をみて非常に感ずるところが出てきました。自分自身も人生の季節で言えば、夏を過ぎて秋にさしかかってきたからだと思います。

桜の花は、パッと咲いてから散っていきます。それに対して、紅葉は花が咲く訳でもなくその身を赤く染めてから静かに散っていきます。人間で言えば、壮年期から老年期に向かっていく姿と重なります。

「出る息は、入る息を待たずして命終わる」

と言われます。紅葉も気がつけばどんどん色づいたかと思ったら、ハラハラと地面に落ちていくように、私の命も呼吸をしている間に残りは短く成っていきます。最後はこれが最後の一息という時が来ます。

紅葉の葉は、地面に落ちて終わりではなく、腐葉土となってまた木の栄養となります。同じように、私のいのちもこの肉体が老いて死んで灰になって終わりではありません。また、次のいのちに生まれていき、また死んで、生まれることを繰り返すのだと仏教では教えられます。これを、輪廻とか、生死流転と言われます。

その際限のない、輪廻から出て離れるのが、仏教で言うところの救われたということです。しかし、そんなことは誰でも出来ないと思うのが普通です。しかし、どんな人も、生死流転を離れて浄土に往生して、仏になるというのが浄土真宗の教えです。どうか、浄土真宗の教えを聞いて、生死を離れる身になって頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】Go ToトラベルとGo To浄土2020年11月01日 00:11

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

秋も深まり紅葉の季節となりました。現在政府のコロナ禍における観光支援策として、Go To トラベル や、Go To イートのキャンべーンが行われています。

「旅行に行こう」「外食をしよう」とのことですが、行くつもりのある人は、折角だからどこに行こうかと考えられている人もおられると思います。

しかし、仏教ではよく人生をまた旅に喩えられることがあります。そういう意味ではGo Toトラベルのキャンべーンを利用しない人もまた旅人であるといえます。

蓮如上人の御文章では、1帖目11通(電光朝露・死出の山路)がそれを書かれています。

まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。

人生という旅は、生まれてきて結婚をし、財産を築いたとしても、いよいよ死出の山路に入って行く時は、妻子も財宝も一つもついてきてはくれません。またついて行きたくてもついていくことは出来ません。三塗の河は一人で行かねばなりません。

こう聞くと、人生の旅路も最後となるといよいよ寂しいもののように思えます。しかし、この御文章には続きが有ります。

これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。

こういう人生の旅路だからこそ、ただ深く願うのは後生のことであり、また後生についてあてたよりにすべきなのは阿弥陀如来です。そして信心決定して参るのは阿弥陀仏の浄土であると続いて書かれています。

死出の山路、三塗の大河を一人で行くのではなく、阿弥陀仏の浄土に参りましょうと勧めておられるのが、蓮如上人の御文章です。お釈迦さまもそのように勧めておられます。

いわばGo To 浄土(浄土へ参りましょう)と勧められているのが、お釈迦さまであり浄土真宗です。

自分自身も、また家族も一人で寂しく旅立つのではありません。Go To浄土でお浄土参りをさせて頂きましょう。それは、阿弥陀仏のお力によるので、「たのむべきは弥陀如来なり」といわれて、「弥陀如来をたのむ」身になったことを信心決定といいますので、「信心決定してまゐるべきは安養の浄土なり」といわれます。

どうか阿弥陀如来をあてたよりにして下さい。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】「既読のつかないSNS」(クローズアップ現代)と御文章2020年10月15日 12:10

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回、御文章は阿弥陀仏から私に宛てた手紙だということをお話ししました。

しかし、当の私たちは「昔の人に宛てた手紙なのだろう」とか「家に有るけど読んだことはなかった」という人も多いかと思います。

とはいえ、御文章は五帖御文章でも80通あります。それ以外にも全部で200通以上の御文章が残されています。それだけ、繰り返し書かれたのはそれだけ伝えたいことがあってのことです。

どうしても伝えたいことは、相手が読むか分からなくでも送ってしまうという話の例として、クローズアップ現代プラス(NHK放送)から紹介します。

既読のつかないSNS ~テクノロジーでよみがえる“命”~ – NHK …

亡くなった家族や友人が使っていたSNSのアカウントに、死後もメッセージを送り続ける人たちが増えている。なにげないできごとを報告したり、生きていたときに伝えられなかった思いを吐露したり‥「既読はつかないけれど、スマホの中で生きているみたい‥」(2020年7月22日放送)

番組ではLINEに、メッセージを送り続ける家族や友人の姿が紹介されています。もちろん相手は亡くなっているので、どれだけ送っても「既読」はつきません。それでも、「本当は言いたいことを伝えられなかった」と言って送り続ける人がいます。

御文章が繰り返し書かれたのも、私に言いたいことがまだ伝えられていないと阿弥陀仏が思われているからです。

では、阿弥陀仏は何を伝えようとされているのかを、葬式などでも読まれる「白骨章」の最後の部分から紹介します。

されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。(白骨章)

人間世界の儚いことは、死ぬ順番が年齢で決まっていないところです。いつどうなるか分からないから、どんな人も早く後生の一大事という、生死の問題を解決して、迷いを重ねるのではなく後生は浄土に往生するという人生における最も大事なことを心にかけて、その後生を助けるという阿弥陀仏にまかせて、念仏を申しなさいと言われています。

LINEも未読が沢山たまっていたら、何か余程の用事だと思って開くのではないでしょうか。阿弥陀仏からの通知は、御文章という形届いています。

読まれたことのない方は、一度読んでみて下さい。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】年賀状が発売開始—真宗で一番読まれている手紙は御文章2020年10月01日 01:10

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

今年も早いもので、10月となりました。10月29日には年賀状も発売されるとのことです。

年賀状と言えば、日ごろお世話になった方に出すものですが、年を重ねるともう今年はあの人に出すことはなくなったということも増えてきます。

手紙は出す人と受け取る人があって初めて成立するものです。

宛て先のない手紙は、ポストに投函しても、相手に届くことはありません。そこで手紙と言えば、浄土真宗で最も読まれている手紙は、蓮如上人の御文章です。

御文章は、蓮如上人が門徒の要請によって書き始められたものです。最初は寛正2年(1461)頃とされています。それから生涯にわたって書き続けられ、その数は二百数十通に及びます。

その後、本願寺9代実如上人によって5帖御文章80通が選ばれ、本願寺10代証如上人によって出版され、全国の寺院、門徒に付与されました。それ以来、現在まで勤行や法話の後に拝読されています。

あまり法話にご縁のない方でも、葬式で「白骨の章」を聞かれたことはあるのではないでしょうか。

また、家に五帖の御文章があるという方もいらっしゃいます。それらの人にしてみると、すでに御文章という手紙が沢山家に届いているということです。

では、蓮如上人からの手紙が私に届けられているかというと、そうではありません。蓮如上人御一代記聞書にはこのようにあります。

一、御文は如来の直説なりと存ずべきのよしに候ふ。形をみれば法然、詞を聞けば弥陀の直説といへり

御文章は、阿弥陀如来の直接の説法だと思うべきである。それは、かつて法然上人が話をされると「形をみれば法然、言葉を聞けば阿弥陀如来の直接の説法」といわれたのとおなじことである。

真宗では、御文章をそのように阿弥陀如来から私への手紙であると頂いてきました。蓮如上人は、阿弥陀如来の説法を代筆して書かれているのだというものです。

では、阿弥陀仏は私にどのように説法をされているのでしょうか。

それは、私の後生について、「私をたのめ、必ず助ける」と呼びかけられています。

その呼びかけが、南無阿弥陀仏であり、手紙にしたのが御文章です。自分宛ての手紙は、誰からか分からないとしても一度は開けて目を通すと思います。そのように、私宛てに書かれた御文章という手紙を、家にある方は一度開いてみてください。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
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