仏教ブログ

【仏教ブログ】浄土真宗でお盆の法要を「歓喜会(かんぎえ)」という理由(1)2021年08月01日 00:08

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

8月になり、今年はまた暑い日々が続いております。昨年以上のコロナ感染拡大により、

お盆に実家に帰省する人も前年並に少ないと思います。

例年ですと、お盆になると実家に帰り皆一同に集まってお盆の法要をすると言うところも多いと思います。

このお盆の法要を「盂蘭盆会」といいます。また 浄土真宗では「歓喜会(かんぎえ) 」ともいいます。名前が違うのは、その名前に込められた由来が違っているからです。

まず「孟蘭盆会」の由来について浄土真宗辞典では以下のように書かれています。


うらぼんえ 孟蘭盆会

『盂蘭盆経』に説かれた故事に由来するといわれる法要。『盂蘭盆経』には目連尊者が安居の最終日(旧暦7月15日)に衆僧を供養することによって、餓鬼道に苦しむ亡母を救ったと説かれている。日本では先祖崇拝の風習と結びついて年中行事の一つとなり、一般には先祖供養のための仏教行事とされる。


一般に、お盆になると亡くなった方が死後の世界から家に帰ってくるとか、亡くなった方が死んだ後の世界で苦しむことのないようにという意味で供養を行っています。

そういう意味では、お盆の法要は「亡くなった方のため」にするものと考える人が多いと思います。

それに対して「歓喜会」について、同じく浄土真宗辞典の「孟蘭盆会」の後半に以下のように書かれいます。

浄土真宗では、こうした先祖供養の意はなく、故人を追悼するとともに、無常の理を感じて仏恩を報謝する仏事とされる。

こういう意味で「孟蘭盆会」は行われます。また「歓喜会」とも呼んでいます。

皆が一同に集まって、お互いが元気に仏法を聞いて喜ぶ集まりが歓喜会です。「亡くなった方のため」ではなく、「今生きている私のため」に行われます。

歓喜会については、次の回でもう少し書きます。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】聖徳太子と歎異抄2021年07月15日 00:07

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の記事に続いて、聖徳太子と親鸞聖人について書きます。

親鸞聖人は、聖徳太子について二百首もの和讃を書かれました。また、親鸞聖人の著作ではありませんが、歎異抄の中にも聖徳太子のお言葉を受けて書かれたと言われている箇所がありますので、今回はそこを紹介します。

聖徳太子の憲法十七条に以下の文章があります。

かれ是んずればすなはちわれは非んず、われ是みすればすなはちかれは非んず。われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず。ともにこれ凡夫ならくのみ。是く非しきの理、たれかよく定むべき。(十条)

(現代語)

相手が正しいならば、私は間違いとなり、私が正しいとすれば相手は間違いとなる。しかし、私が必ず聖者であるわけでもなく、相手が必ず愚かでもない。ともにこれ凡夫である。正しい間違いというのは誰が定めることができるであろうか。

これに関連した歎異抄の文章は以下になります。

聖人の仰せには、善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり(後序)

(現代語)

親鸞聖人が仰っていたことには、「何が善なのか悪なのか、この私には全く分からない」

この世の中の争いというのは、正しい人と間違った人が争っているのではなく、正しい人と正しい人がお互いに「こちらが正しく、相手が間違いだ」と主調することで争っています。しかも、「自分が正しい」という点については全く疑う余地もありません。

憲法十七条に

一にいはく、和らかなるをもつて貴しとなし

とありますが、そうなるには「自分は絶対に正しい」という前提をお互いに捨ててみないとできないことです。

人間関係だけでなく、私が常日ごろ考えているものに「絶対正しい」というものはありません。それを正しい前提で過ごしていると、思わぬ事態が起きた時に「こんなはずではなかった」と驚くことになります。

自分の考えによるのではなく、仏様の教えられることに従って行きましょうと教えられるのが仏教です。

上記の歎異抄には、その後に

ただ念仏のみぞまことにておはします

と書かれています。

念仏の教えに従って行きましょうと教えられるのが浄土真宗です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】聖徳太子と親鸞聖人2021年07月01日 00:07

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

今年(2021年)は、聖徳太子1400回忌の年です。浄土真宗本願寺派でも、今年4月に法要が行われました。

聖徳太子(574-622)と親鸞聖人がどんなつながりがあるのかと不思議に思う方もあると思います。実は、親鸞聖人は大変聖徳太子のことを尊敬されており、200首の和讃を作られています。

聖徳太子は、日本に本格的に仏教を導入された方で、法隆寺、四天王寺などを建立され、「法華経」「勝鬘経」「維摩経」の義疏(三経義疏)(解説書)を作られたと言われています。また、十七条憲法でも有名な方です。

親鸞聖人は、この聖徳太子がおられなかったら私はこの日本で仏教を学ぶことはできなかったし、阿弥陀仏に救われることもなかったとされています。和讃の中では、聖徳太子のことを「観音菩薩の化身」「日本のお釈迦さま」とまで言われています。

救世観音大菩薩

 聖徳皇と示現して

 多々のごとくすてずして

 阿摩のごとくにそひたまふ(皇太子聖徳奉讃)

(現代語)

救世観音大菩薩は、この日本に聖徳太子となってこの世に現れて、父のように私を捨てないで、母のように私に付き添って下さるのです。

和国の教主聖徳皇

 広大恩徳謝しがたし

 一心に帰命したてまつり

 奉讃不退ならしめよ(皇太子聖徳奉讃)

(現代語)

日本の教主(お釈迦さま)である聖徳太子の広大なご恩は感謝しつくすことができません。二心なく太子のみ言葉に従って、阿弥陀如来に帰依し奉り、本願他力を信じ、怠ることなくずっとほめたたえ奉りましょう。

今日、日本に仏教があるのは当たり前のように感じますが、元々日本には仏教はなく、聖徳太子の時代は「外国の宗教」でした。聖徳太子の様々な尽力によって日本に本格的に仏教が伝わるようになりました。

遠く離れたインドで生まれた仏教が、この日本に伝わったのも聖徳太子のお陰であったということを親鸞聖人は大変感謝をしておられます。浄土真宗だけではなく、広く日本仏教の大恩人にあたる方が聖徳太子です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】尺取り虫と蚕と私2021年06月15日 00:06

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

6月は梅雨の季節で、湿気も気温も高くなり虫も増えてきます。

今日は、虫を通して人間の姿を教えられた話について書きます。

その虫とは、尺取り虫と蚕です。どちらも以前はよく目にしたと言う人も多くありますが、近年は中々目にする機会が減ってきました。

それが以下の文章です。これは、中国の曇鸞大師が書かれたものです。

仏本(ぶつもと)この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭[蚕衣なり]の自縛するがごとし。(浄土論註)

阿弥陀仏が、法蔵菩薩という菩薩であったときに、私たちの姿をご覧になってなんとか救ってやりたいという慈悲の心から本願を建てられました。その時に、私の姿をご覧になったときに、ウソ偽りの姿、同じことを繰り返している姿、そしてそれに終わりがない姿を知られました。それは例えると、尺取り虫(蚇蠖)が同じところをぐるぐる回っているようなものであり、蚕がその繭(蚕繭)によって自分を縛っているようなものだと言われています。

このように私の姿を、尺取り虫と蚕に例えておられます。

尺取り虫が、同じところをいつまでも回り続ける姿を通して、自分の力ではいつまでも迷いを離れる事ができない私の姿を現されています。

また、蚕が自分の口から吐いた糸によって繭を作りますが、その繭によって自分を縛り人間の手にかかれば茹でられても逃げることができません。そこから、自らの煩悩によって、自分が苦しみ迷う世界を生み出している私の姿を例えられています。

ここで尺取り虫が自分が同じところをなぜ回っているかを知らないように、私自身も迷いの中にいるということは分からない場合も多いです。しかし、分かったとしてもどうしようもありません。そこで私の力ではどうにも迷いの世界を離れることができないことを憐れに思われて、法蔵菩薩は私を救うという本願を建てられました。そして阿弥陀仏という

仏になられて現在私を救おうと働きかけられています。

その働きかけが、南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏を阿弥陀仏のお働きと称え聞いて疑い無い人は必ず迷いを離れて浄土に往生するというのが浄土真宗の救いです。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】寺にアジサイが多い理由2021年06月01日 00:06

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

今年は梅雨の入りも早く、雨が多く続いています。この時期に咲く花といえばアジサイが有名です。

アジサイといえばアジサイ寺というのもあるほどよくお寺で見かけます。では、なぜアジサイを植えたお寺が多いのでしょうか?

アジサイが咲く梅雨の季節は、季節の変わり目で亡くなる人も多くありました。その際に、お仏花として簡単に手に入れることができました。また、アジサイの特徴の一つとして、手間をかけずとも育つというのがあります。勝手に育つとともに、手入れをしなくても寺の中が荒れるということもありません。

また「四葩(よひら・花弁が4枚ある)」の別名をもつアジサイが、「死(4)」を連想することも理由のひとつにあったといわれています。

いろもさまざまに変わるため、花言葉に「無常」「移り気」があります。

正岡子規の俳句に

「紫陽花や きのふの誠 けふの嘘」

というのがあります。

諸行無常と仏教では言いますが、昨日まことだと思っていたことが、今日はウソになってしまうことを紫陽花の花に例えています。

今日は大丈夫だと思っていたことも、次の日にはそうでなくなってしまうものの最たるものが人の命であり健康です。昨今のコロナ禍ではその例はたくさん見聞きしてきました。

浄土真宗では、阿弥陀仏にただ今救われると必ず浄土に往生する身に定まると教えられています。浄土と聞くと、何かおとぎ話やウソのように思う方もありますが、そんなきのうのウソが今日はまことと言える救いがあります。

あらゆるものが変わる世の中で、これだけは変わらないというのが浄土に往生させて仏にしてみせるという阿弥陀仏の救いです。

アジサイの花を見た時に思い出して下さい。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】『浄土にてかならずかならず待っている』2021年05月15日 00:05

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回、人は孤独であるということを教えられたお釈迦さまのお言葉を紹介しました。

しかし、家族や友人などと離ればなれになって二度と会うことができないと思うと大変つらくなってきます。

浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、晩年にお弟子に書かれた手紙には、それとは反対のことを書かれています。

この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。(親鸞聖人御消息)

私の体は、今は年を取ってしまい、貴方よりきっと先に浄土へと旅立って往生する。だから浄土で必ず必ず待っているぞと書かれています。

この世は老少不定とはいいながら、さすがに自分の年もある程度の年を越えていくと、きっとあの人より、また子供や孫より先に旅立つに違いないと思うときがあります。反対に、自分より年上の家族をみて、自分がきちんと見送らねばと思う人もあるでしょう。

そんなときに、見送られる立場になった人が「浄土にてかならずかならず待っているぞ」ということができるでしょうか?自分のこともさることながら、「待っているぞ」と言った相手がまた浄土に往生しなければ、どれだけ待っていても再会することは叶いません。見送る家族に「浄土で必ず必ず待っている」と言われたならば、私はどうやって浄土に往生すればいいのでしょうか?

それについて、親鸞聖人は上記のお手紙の中でこのように書かれています。

念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。(同上)

念仏するものを必ず浄土に往生させるという阿弥陀仏の本願であると疑い無く信じて、南無阿弥陀仏と称えるものは、浄土に往生すると言われています。

南無阿弥陀仏は、私を浄土に往生させるという阿弥陀仏のお働きそのものです。この南無阿弥陀仏を深く信ずる人は、浄土往生が定まりますので、親鸞聖人のように「浄土にてかならずかならず待っている」ということができます。また、同じように浄土往生が定まった人は必ず必ず浄土で再び会うことができます。

旅立つときには「待っているぞ」見送る側は「待っててね」とお互いが「必ず必ず浄土に往生する」という身になることが、本当に有り難いことだと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】誰にも会えないと苦しみと、いつでも会える世界について2021年05月01日 00:05

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

新型コロナウイルス感染者の急増により再び緊急事態宣言が東京、京都、大阪、兵庫の4都府県に出されました。四都府県だけに限らず、独自の規制を出している都府県もあり、また感染者の多い都府県への移動も自粛するようにと呼びかけられている状態です。

いわゆるゴールデンウィークも、昨年に続き帰省をしたり旅行をすることはできないと言う方も多いかと思います。また、子供さんやお孫さんの帰りを待っていた方からすると、またしても肩透かしを受けたような状態です。

「コロナ疲れ」という言葉も、使われるようになって久しいですが、それはどんな「疲れ」なのかを考えてみますと、最も大きなものは「人に会うことができない」ということに尽きるかと思います。

人に会うことができない「孤独」と言う状態は、大変苦しいものです。随分前から「孤独死」という言葉を目にする機会も増え、孤独な状態のまま人生を終えることは誰も望んでいることではありません。

しかし、今回の緊急事態宣言が出なくても、人は一人で生まれ、一人で死んでいく存在であるとお釈迦さまは教えられています。

人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。行に当りて苦楽の地に至り趣く。身みづからこれを当くるに、代るものあることなし。(仏説無量寿経)

私たちは、日ごろ生活をしている中で、いろんな欲望に振り回されて生きています。それでも、生まれてきたのは独りですし、死んでいくときも独りです。それぞれの行いによって、それに応じた世界にまた行き着くのですが、その代わりをしてくれる人は誰もいません。

死んだ後が苦しい世界になるのは、一人一人が孤独の状態にあるからです。自分以外に、その苦しみを替わってくれる人がいないし、誰にもあうことがないのが地獄という世界です。

そういう意味で、誰とも会えない状態が続いている人は、生きている現在も地獄におられるということになります。

しかし、阿弥陀仏の浄土は、「倶会一処」といわれるように一つのところに浄土に往生した人はまた会うことができます。お互いを、浄土で懐かしく再会できるようになると有り難いことです。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】桜の花と花まつり2021年04月08日 00:04

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

4月は桜の季節ですが、仏教では花まつりのある月です。

花まつりとは、お釈迦さまが誕生されたのが旧暦の4月8日とされているところから、4月8日に各地の寺院で開かれています。

お釈迦さまが誕生された時、天から神々が降りてきて甘露の水を濯いで祝福し、花が降ってきたとされているところから花まつり、潅仏会と言われています。

仏教で桜の花というと、世の無常を思う人もおられるでしょうが、祝福の花が咲いていると見ることもできます。

浄土真宗では、お釈迦さまのことを「教主」として尊敬をいたします。「教主」というのは、教法の主という意味で教えを説いた方という意味です。私を助ける力のある仏様は、阿弥陀仏であると教えてくださったのがお釈迦さまです。

そのように親鸞聖人は正信偈の中で以下のように言われています。

如来所以興出世 唯説弥陀本願海

(如来世に興出したもうゆえんは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり。)

お釈迦さまがこの世に出られたのは、ただ阿弥陀仏の本願を説くためであったと書かれています。

阿弥陀仏の本願とは、本願を信じ念仏するものを必ず浄土に往生させ仏にしてみせるというものです。浄土真宗での「救い」とは、この阿弥陀仏の本願によって救われることをいうので、阿弥陀仏は救う仏さま(救主)といわれます。

しかし、そんな阿弥陀仏の本願も教えてくださる方が現れなかったら、私が救われるということはありません。その意味で、お釈迦さまが誕生されたということは大変有り難いことであり、祝福すべきことなのです。

満開の桜や舞い散る桜を見るときに、お釈迦さまが誕生され、その教えによってまた私も救われるのならば、桜の花は祝福のために咲いたものだといえます。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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【仏教ブログ】桜は散ると見るか咲くと見るか2021年04月01日 00:04

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

今年も桜の季節がやってきました。しかし、コロナ禍の影響で、みんなで集まって花見ということはできません。花見の名所では、人が花見で宴会を開かないように柵を作ったところもあると聞きます。花見でみんなで集まることはできなくても、日本人にとって桜は特別な花で、今日は「桜ソング」というジャンルがあるほど桜をテーマにした楽曲は多く作られています。

卒業シーズンと桜の開花時期が重なることもあり、いろんな人との別離や環境の変化がそのテーマになっています。

古くは小倉百人一首の中には、六首も桜の歌が選ばれています。その中から一首を紹介します。

花さそふ 嵐の庭の雪ならで 

 ふりゆくものは わが身なりけり(入道前 太政大臣)

(花を誘って散らす嵐の吹く庭は雪のように花が降っている。しかし、本当にふりゆくものは、雪に見える花ではなくこの我が身だった。)

春の嵐という言葉もあるように、桜の時期になるとしばしば強い雨風が吹き荒れる日があります。それまで満開だった桜の花もあっというまに散ってしまいます。その有り様から、この歌に限ら桜の歌は、散りゆく桜と変わりゆく自分の姿を重ねたものが多く有ります。

昨年来のコロナ禍もあって桜を見て心躍る人もいる一方で、散りゆく姿に自分も含めていろんな人の顔が浮かぶ人もあると思います。

浄土真宗の親鸞聖人は、9歳で出家されるました。出家得度の式の日、事情で開始が遅くなり、夜も遅くなったし疲れただろうから明日にしてはどうかと促されたところ以下の歌を詠まれたと言われています。

明日ありと思う心のあだ桜

 夜半に嵐の吹かぬものかは

明日という日は桜が一晩で散ってしまうように当てにならないから、今日得度をしてしてもらいたいとの願い出に、その日の内に得度をされたと言われています。

桜の花を見て、自分も散ってしまうのだなと寂しく思うのか、それともだからこそ本当にやらねばならないことに力を尽くそうと思うのかは、何を判断基準にするかによって変わります。

やがて必ず花は散りますが、花咲く世界があると教えられているのが仏教です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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【仏教ブログ】あれから10年を振り返って2021年03月11日 02:03

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

東日本大震災から10年立ちました。歳を重ねるごとに、10年という年月を聞いても、つい最近のことのように感じられます。これから先の10年は過ぎてみたらもっと短く感じることでしょう。その間、自分自身は何も変わらないまま時間だけが過ぎているのではもったいないことだと蓮如上人は言われています。

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前回紹介した御文章を少し前の部分も含めて紹介します。

それ、つらつら人間のあだなる体を案ずるに、生あるものはかならず死に帰し、盛んなるものはつひに衰ふるならひなり。さればただいたづらに明かし、いたづらに暮して、年月を送るばかりなり。これまことになげきてもなほかなしむべし。このゆゑに、上は大聖世尊(釈尊)よりはじめて、下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり。しかればまれにも受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり。(御文章3帖目4通)

人間のはかない姿をよくよく考えてみると、生きているものは必ず死んでいき、若いものも最後は衰える習いである。だからただ虚しく夜明けを迎え、ただ日が暮れて、一ヶ月一年と日を送るばかりである。どんな人も死を逃れることはできない。

そんな中、なかなか人として生を受けることできない、また仏法を聞くことはさらにないことである。と言われています。

ここで「いたづらに明かし、いたづらに暮し」と言われているのは、「何もせずにぼーっと生きている」ということではありません。例えば、東日本大地震から10年間を振り返るとそれぞれ色んなことがあり、そこで時には笑い、時には泣いてきたことと思います。しかし、よくよく考えてみるとただ歳を重ねた以外には何も変わらない自分がいるのではないでしょうか。

https://1.bp.blogspot.com/-JBS94CyHCdk/Uyk_HvFJfqI/AAAAAAAAeMA/7Henae-H-xI/s800/album_family.png

年を重ねること自体は自然なことですが、問題はいつまでも生き続けることは出来ないということです。死んでどこへ行くかも分からないまま命を終えても、それで終わりではないと仏教では教えられています。それを生死流転とか、流転輪廻といわれます。いろいろな姿に生まれては死にかわりを繰り返し、それに際限がない状態です。

その生死から離れる道を教えられたのが仏教です。浄土真宗では、生死を離れ、浄土に往生し仏になることが、阿弥陀仏の救いだと教えられています。その救いにあう人生は、いたづらに過ぎるものではなく、有り難いものに変わっていきます。どうかこの教えにあって頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
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