仏教ブログ

【仏教ブログ】看取り士さんから聞いたこと2019年11月17日 16:11

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

最近、特別養護老人ホームに入っている祖母(96歳)が看取り介護になりました。看取り介護とは、その施設では医者の判断で治療のしようがない状態になった入居者に対して、家族の同意のもとに行われるものです。

内容は、痛み止めを除く延命治療を行わない。残された時間に、本人や家族が望むことを出来るだけ叶える為に対応するということでした。それにあたって施設のスタッフから、本人が最後に行きたいと思っている場所や、食べたいものは何でしょうかと細かく聞かれました。

私はその施設に看取り介護というものがあるのを初めて知り、看取り士の資格をもっている友人に看取りとは何でしょうかと聞いてみました。

看取りの現場で一番大事なことは、看取る側が看取られる人に対して感謝の気持ちを実際に口に出して伝えることだと言われました。兎角身内ほど、面と向かって「有り難う」とはなかなか言いにくいものです。しかし、親であればその親がいなければ今の自分は間違いなく存在していません。感情的にうまくいかない場合もありますが、全くの一人では人間生まれてくることもできませんし、生きていくこともできません。お互いがいなければ、お互いは存在しないという関係性に感謝することで、看取る側も看取られる側も、その感謝の気持ちで平等で同じ気持ちになれるとのことでした。

仏教では、いろいろな苦しみを分けられて「四苦八苦」といわれます。

その内に、愛別離苦というのがあります。文字通り、愛するものと別離する苦しみを言われたものです。「会うは別れの始め」という諺もありますが、出会った人とはいつかは必ず別れなければなりません。中でも一番大きな別れは、死別です。そして多くの場合は、その人の死に目に立ち会うことはできません。それが、葬儀の場での身内や友人の悲しみの原因の一つとなっています。

では、なぜそうなるのかと言えば、いつも思っていても言葉にできなかったことがあるからです。伝えられなかったことがあるからです。それが出来ないと思うからつらく悲しい思いをします。それを生きている間に言葉にして伝えましょうというのが、看取り士の方が勧められることでした。

そうして送り出す側は、伝えたいことを伝えて安心もできます。送られる人は、残していく人への後悔はなくなるとことでしょう。

そこで、考えなければならないのは、ではそうやって看取る側の私もいつかは誰かに看取られる側になるということです。そのとき私はどうなってしまうのでしょうか?避けられない死を前に、本当にすべきことを教えられたのが仏教です。

どうか、仏様の教えを聞いて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】「まさかこんなことになるとは」台風被害に思うこと2019年10月12日 18:10

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

2019年9月9日台風第15号の接近、上陸により、特に千葉県では甚大な被害がありました。

被害に遭われた方には、心よりお見舞い申し上げます。(※)

今回は、とりわけ停電の復旧が遅れたことが大きく報道されていました。

停電になった地域の人の多くは、「明日には電気も復旧するだろう」と思っていたとのことでした。ところが、この停電は誰もが思っている以上に長引きました。東京電力は、10日に11日中の復帰を目指すと発表します。その翌日、11日中の復帰は難しいと前日の発表を取り下げました。

この時点で、停電より2日経っています。それでも、これまでの日本人の感覚でいうと台風での停電なら遅くとも3日4日には戻るだろうと思います。その後東京電力は、27日(停電より2週間)かかると訂正しました。

当初は、11日(停電より2日)になれば電気が戻ってくると思い、被害にあった自宅の片づけを頑張っていた方々は、2週間かかるとの発表に大いに落胆したとのことでした。

台風の直撃をうけて、停電になることも想定外ならば、停電がこれだけ長引くことも想定外の出来事でした。そこで被害にあわれた多くの人は「まさかこんなことになるとは」といわれていました。

このような報道を見ている人も、いつそのような目に遭うかわかりません。その意味では、私たちの人生で想定外のことはいつでも起きる可能性のあることです。それでも、私たちは「いつまでもこのまま変わらない日が続いていく」ことを想定して生きています。だからこそ、平穏にいきていくことが出来ます。

そのため、想定してないことが起きた時に、私たちは戸惑い、生きる力を失ってしまいます。

一番想定していないことは、自分が今日死ぬということです。最近は「終活」という言葉も定着し、自分が死ぬことについての準備を心がける人も増えていますが、そんな人でも「自分が今日死ぬ」とは想定していません。しかし、それは想定というよりも、確実な現実です。誰しもが、何時かはこの命の終わりを迎える時があります。しかし、それは当事者の目線でいえば、90才でも、100才でも、自分の死ぬ日は「今日」です。「明日死んだ」という人はありませんし、「昨日死んだ」という人もありません。その意味では、「まさか自分が今日死ぬとは」と実際の時には思います。

仏教では、そのように「いつでも変わらないことは一つもない」ということを「諸行無常」といわれます。例外なく変わらないもの(常なるもの)は無いということです。

とはいえ、あらゆるものが変わりつづけるということを知ると私たちは安心が出来ません。そこで、蓮如上人の御文章にはこのように書かれています。

人間は不定のさかひなり。極楽は常住の国なり。されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがふべきものなり。(御文章5帖目11通 御正忌)

台風を逃れたとしても、私がいつ死ぬかという点では「不定の人間」であることには違いありません。それならば、「常住の極楽をねがふべき」と勧められています。

浄土真宗は、私が浄土往生し仏になるという救いです。みなさんどうか聞いて下さい。

※2019年10月12~13日の台風19号等の災害被害について

お見舞い申し上げます。 

光顔寺

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】お彼岸について(2/2)2019年09月28日 13:09

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回、お彼岸について、太陽が真西に沈むこの時期は、西方十万億仏土を過ぎたところにおられる阿弥陀仏とその浄土に思いを馳せる日です。ということを書きました。

そう聞きますと、阿弥陀仏も浄土も随分遠くにおられるのだなぁと思います。そこで、自分とは随分縁遠い話しだと思う方もおられます。しかし、観無量寿経というお経には、このようにも説かれています。

−−

阿弥陀仏、此を去ること遠からず(観無量寿経)

−−

阿弥陀仏は、私のすぐ側におられ、私を浄土に往生させようと夜昼つねに働いて下さっているということです。

そうなると、先の阿弥陀経と矛盾をするのではないかと思われるかも知れません。

阿弥陀経の「西方十万億仏土を過ぎた」といわれるのは、私たちから見た阿弥陀仏や浄土の感じ方です。私たちからすれば、煩悩につねにふり回されている生活ですから、阿弥陀仏の清浄な世界とは大きな隔てがあります。実際に、人間がどう頑張ってもそんな遠いところへは行くことが出来ません。

それに対して観無量寿経の「此を去ること遠からず」は、阿弥陀仏のお慈悲についていわれたものです。自らの力では、とても浄土へたどり着けない私の元へ、阿弥陀仏の方からよりそって下さいます。私の方から遠い存在である阿弥陀仏は、現在ただ今私を救おうと働いておられます。阿弥陀経でいう「いま、現にましまして法を説きたまふ」のです。

具体的に、どう法を説いておられるのかといえば、それが「南無阿弥陀仏」です。私が、口に南無阿弥陀仏と念仏申すことは、阿弥陀仏の働きかけが、私の口から出て下さるものです。

阿弥陀仏のお徳からいえば、私とは遥かに隔てが有るように感じますが、南無阿弥陀仏と私に呼び掛け、救って下さると聞いて見て下さい。「此を去ること遠からず」のお言葉も、より身近に感じられるのではないでしょうか。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

【仏教ブログ】お彼岸について(1/2)2019年08月31日 12:08

9月になると、秋のお彼岸の時期です。正確にいうと、春の春分、秋の秋分の日を中心に、前後3日間を加えた7日間がお彼岸の時期になります。

(令和元年は9月20~26日)

お寺によっては彼岸会という行事をすることもあります。しかし、彼岸とは一体どういう意味でしょうか?

彼岸とは、「彼」方の「岸」という意味です。仏教では、目指すべきところという意味でさとりをひらくことを言われます。それに対して「此岸」という言葉があります。これは「此」方の「岸」という意味で、煩悩にふり回されている私たちの日々の暮らしを言います。

それでは、なぜ春分の日と秋分の日が彼岸の中日と呼ばれるのでしょうか?

春分の日と秋分の日は、太陽が丁度西に沈む日です。それ以外は季節によって、全くの西から少し北か少し南に沈みます。もともと仏教では、西というのは、太陽が沈む方向ということで全てのものが最後に帰するところという意味があります。そのことから、太陽が全くの西に沈む日を彼岸といって仏事を行ったりします。

浄土真宗では、「西」という方角は特別な意味を持っています。それは、阿弥陀仏の浄土のある方角が西だからです。

−−−−

そのとき、仏、長老舎利弗に告げたまはく、「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。(阿弥陀経)

−−−

これは、阿弥陀仏と浄土について説かれたお経の一つである阿弥陀経の一部です。

お釈迦さまが、ある時お弟子の長老舎利弗尊者にこういわれました。「ここから西の方角に、十万億仏土という遥かな距離を過ぎたところに世界がある。その名前を極楽という。そこに阿弥陀という仏がまします。その阿弥陀仏は現在ただ今、法を説いておられます」

このように西というのは、阿弥陀仏と、その阿弥陀仏がおられる極楽浄土のある方向です。彼岸という、太陽が丁度、真西へ沈むのを見ながら、昔の方々は阿弥陀仏とその浄土に思いを馳せたのでしょう。

私たちが死んでも、この命はなくならないと仏教では教えられます。最後に、私の命の帰るべきところはどこでしょうか?それは、阿弥陀仏の浄土しかありませんと教えられるが浄土真宗です。どうか、自分の最後行くところは何処なのかを考えるご縁として頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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【仏教ブログ】仏教で教えられる「人生は苦なり」について2019年08月02日 19:08

仏教では、私たちが生きていることは苦しみであると教えられます。それを短く言われたものとして「人生は苦なり(一切皆苦)」というお釈迦さまのお言葉があります。

そう聞くと、その通りと膝を打つ人もあれば、確かに人生そうそう楽しいことばかりではないし、苦しいこともあるけれど、人生の全てが苦しいというのはちょっと同意できないという方もおられることと思います。また、そういうことから仏教は虚無主義だという人もいます。

しかし、それは大きな誤解です。この「苦」とは何も、肉体的な苦痛や、精神的苦痛のことをいわれたものではないからです。実際に、「一切皆苦」の「苦」の元になったインドの言葉は、今日英訳されたときには「不満足」の意味で訳されています。

その意味で言い換えれば、「人生は不満足なり」ということになります。また別の言い方をすれば「人生において満足は続かない」となります。大学に合格したとか、就職が決まった時には、喜びも満足もありますが、それが続かないということです。目指していたものを手に入れたり、また立場についたりしたとしても、一度手に入れるとそれは本人にとっては「当たり前」のこととなってしまい、満足感は薄れていきます。

ではなぜそうなってしまうのかと言えば、大きな要因の一つが「無常」です。仏教では「諸行無常」といって、あらゆるものは常に変化を続けると教えられています。手に入れたい物も、最初に手に入れた時は新品でも使っていくうちに古くなったり、壊れることがあります。そして、私の心もまた常に変化を続けていきます。煩悩の一つの「貪欲」というのはその代表的なものです。何かを手に入れても、それに満足することができず、もっともっとと際限なく欲するのがこの貪欲というものです。

相手も自分も変わり通して「これでもう十分満足だ」となかなか言い切れないのが人間の姿です。そうして人生は過ぎていくので、「人生は苦なり」といわれます。

そういう状態から、出て離れる道を教えられたのが仏教です。この仏教をどうか聞いて下さい。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

今年も半分過ぎて思うこと2019年07月07日 10:07

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

明けましておめでとうございますと言ってたのが、つい先ほどのように思っていましたが、もう6月も終わり一年で言えば半分を過ぎたことになります。

私は、6月が終わると聞いて毎年思うことは、「もう半年も経ったのに何も変わっていない」ということです。光陰矢の如しと言われますが、本当に月日が経つのは速いものです。

月日が過ぎるのが速いということで言えば、浄土真宗を開かれた親鸞聖人が大変尊敬されている、中国の善導大師は「往生礼讃」にこのように仰っています。

人間怱々として衆務を営み、年命の日夜に去ることを覚えず。

灯の風中にありて滅すること期しがたきがごとし。忙々たる六道に定趣なし。

いまだ解脱して苦海を出づることを得ず。いかんが安然として驚懼せざらん。

おのおの聞け。強健有力の時、自策自励して常住を求めよ。(往生礼讃)

(大意)

人間はあわただしく、日常の生活に追われて、寿命が刻々と縮まっていることに気がつかない。

それは、ロウソクの火が風に吹かれているのに消えることをどうしようもないことに似ています。果てしなく続く六道には定まることろがありまません。これまで、その苦しみの世界を出たこともありません。なぜ、ボーッと生きてその状況に驚かないのであろうか。

一人一人が教えを聞いて下さい。元気な時に、救いを求めて下さい。

私たちの寿命を灯火にたとえられています。今日で言えばロウソクの方が分かりやすいと思いますが、ロウソクの火が灯るということは、寿命というロウソクを燃やし続けることになるりす。例えば、100年の寿命のロウソクだとすると、その100年分のロウソクを燃やし続けるのが人生だということになります。運動をしたり、食事に気を使ったり、病院にまめに通うのは、少しでも長く生きるためだと思います。しかし、そのロウソクは部屋の中にある訳でなく風が吹いている外に立っているのです。ですから、突然強い風にさらされるとロウソクの火は忽ちに消えてしまいます。

重い病気にならなくても、突然の事故や災害で命を失うというのは丁度このロウソクの火が消えるようなものです。

そんな状態が私であると同時に、何も無くても寿命というロウソクは年々短くなっていきます。本当に、求めることはその生死の苦海を離れて浄土の救いを求める事だと教えられています。

年の瀬にもう一年経ったのかと思う前に、一年の半分が過ぎたことを通して考えて見て下さい。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

正しさと救いについて思うこと2019年06月30日 18:06

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

ここ最近の痛ましい事件を通じて思ったことを書きます。

先日、元農林水産省の事務次官が、息子を刺殺したという事件がありました。報道によれば、2019年5月28日に神奈川県川崎市で発生した私立カリタス小学校の児童ら20人殺傷事件を見て、「このままでは息子が第三者に危害を加える」と思い犯行に及んだとのことです。

なぜ、我が子の命を自分の手で絶たなければならなかったのかという点については、本人にしか分からない事情もあります。しかし、その時その父親は「これが正しい」と判断したのだと思います。しかし、その「正しい」の思いは、何よりも父親自身を救ったことにはなっていません。息子の命をこの手で奪ったことについて、「全く後悔をしていない」と言い切る事はできないでしょう。

では、この父親はどうすればよかったのでしょうか?第三者としてはあれこれいうことも出来るでしょうし、それぞれの立場で「あの時はこうするべきだった」という人もいます。その人が信じる「正しいこと」を述べたとしてもその「正しさ」は当事者を救うことにはなりません。

ここで分かる事は、「本当の意味で正しいこと」が人を救うのであれば、私たちはその「正しいこと」を知り得ないということです。

浄土真宗を開かれた親鸞聖人の言葉として、歎異抄には以下のように書かれています。

聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。(歎異抄)

(現代文)

親鸞聖人は、「何が善であり何が悪であるのか、 そのどちらもわたしはまったく知らない。 なぜなら、如来がそのおこころで善と思いに なるほどに善を知り尽くしたのであれば、善を 知ったといえるであろうし、また如来が悪と お思いになるほどに悪を知り尽したので あれば、悪を知ったとえいえるからである。

しかしながら、わたしどもはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、この世は燃えさかる家のようにたちまちに移り変わる世界であって、すべてはむなしくいつわりで、真実といえるものは何一つない。その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである」と仰せになりました。

もし、私が考える「正しいこと」が人を救えるのならば、この世に苦しむ人はありません。なぜなら、苦しむ人の多くは、「こうなるとは思ってもいなかった」と考えるからです。「私が正しいと思うことが救いにはならない」ことから、親鸞聖人のは「阿弥陀仏が正しいと選ばれた念仏」が本当の救いだと教えられました。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

諸行無常から考えること2019年06月09日 10:06

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の記事で、諸行無常について書きました。今回も諸行無常について続けて書いていきたいと思います。ここ最近でも、交通事故や、通り魔殺人事件などいつ何が起きるか分からないと感じる報道が続いています。天災は忘れた頃にやってくると言いますが、人の命が無常であるということも日々忘れながら私たちは生きています。

その無常ということで、浄土真宗の方なら耳にされたことがあるのが蓮如上人の白骨の御文といわれるものです。有名な「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身」と人の命の無常なることを書かれたところから、そう呼ばれています。

この白骨の御文を書かれた蓮如上人は、御自身もご家族の無常に何度もあわれた方でした。蓮如上人が57才の時に、26才だった長女を亡くされ、58才の時には25才だった次女を亡くされています。また、64才の時には奥さんを亡くされ、69才の時には、42才の長男を亡くされています。

子供に先立たれる親の気持ちというのは、昔も今も変わりはありません。蓮如上人は、この白骨の御文以外にも、世の無常について御文を書かれています。

「されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。(白骨の御文)」

人間の命のはかないことは、年を取ったものが先に死んでいくと決まってはいないところであるから、どんな人でも後生の一大事をこころにかけて、阿弥陀仏を疑い無くあてたよりにして、念仏申しなさいといわれています。

この後生の一大事とは、この命が尽きた後の最も重要なことをいいます。この生死の問題を解決して浄土に往生して仏のさとりをひらくことを言います。それをこころにかけよというのは、この無常な世だからこそ、どうにもならないと後ろ向きに考えるのではなく、必ず死んでいく身が浄土に往生する道があることをどうか知って、浄土往生する身になって下さいということです。それもこの命のある間にその身に救われるかどうかは決まるので、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせてと勧めておられます。

家族だけでなくわが身が無常であることは、いつでもどこでも変わりませんが、そんな私が浄土往生の身に救われるという阿弥陀仏の救いもいつでもどこでも変わらず働いておられます。

諸行無常を考える時には、この後生の一大事も考えてみて下さい。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
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現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

令和になっても変わらないもの2019年05月29日 18:05

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の記事で、平成から令和に変わったことを通じて、時代の変化と仏教について書きました。

仏教では、時代が変わっても変わらないものとして三つあげられたものがあります。それが「三法印(さんぽういん)」といわれるものです。これは仏教の根本真理を三つにあらわしたもので、仏教の旗印(法印)といわれます。旗印とは、昔の戦場での目印としたもので、有名なもので言えば豊臣秀吉の千成瓢箪や、真田家の六文銭などがあります。それを見ると、どういうものか一目でわかるようになっています。

仏教の旗印ということは、これを見ると仏教という教えがどういうものかわかると言うものです。

具体的には、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つをいいます。

今回は、その最初の諸行無常について書きます。

諸行とは、あらゆるものという意味です。無常とは、いつまでも変わらないものはない、同じ状態は続かず常に変化をしていくということです。

すでに令和となってもう少しで一ヶ月になろうとしています。しかし、振り返って見ると改元の日の大騒ぎはなんだったのかと思うほど、以前と変わらない日が続いているという人も多いかと思います。しかし、令和に入ってから本日まででも、痛ましい事故で亡くなった方も多く有ります。そういう事故などは、元号と関係なくいつどこで起きるか分からないものです。

改元の日の大騒ぎも続きませんし、またいつまでも変わらないと思っている日常もまた続きません。そのように、あらゆるものは全く同じ状態では有り続けることはないというのが諸行無常ということです。その諸行無常ということは、いつの時代になっても変わらないと教えられるのが仏教です。

社会や環境の変化も続きますが、一番変わりやすいもの、無常なものというのは、この私の命です。人生100年時代とも言われますが、いつまで生きられるという保証もありません。また、このころには死んでいるはずという予定も立ちません。そういう意味では「こんな筈ではなかった」ということが、人の苦しみの多くの原因の一つには違いありません。そして、予定がどうあれ死なない人はいません。

そこで、仏教では、物事は常に変わり続けているものであり、いつまでも続くものは何一つないと教えられます。そして、浄土真宗では、全てが無常の世界にいる私たちは、常住の浄土に往生すべきであると教えられます。私が命が無常であるということは変わりませんが、変わらない浄土があるということも変わりません。浄土往生の救いにあって下さいと勧められているのが浄土真宗です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

平成から令和へ。時代の変化と仏教について。2019年05月01日 15:05

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

本日、2019年05月01日に平成から令和へと元号が変わりました。そのため、2019年に入ってからは「平成最後の」とか「平成30年を振り返る」という言葉をよく目にするようになりました。また、新元号が発表された日は新聞の号外を奪いあうように手にする人の姿も報道されていました。

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そのような現状を見ると元号が変わるというのは、日本人にとって一つの時代の区切りから何か変わるような感じもします。しかし、西暦で言えば2019年の4月から5月に変わっただけで、一個人の人生に何か変化があるということはありません。

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しかし、仏教ではある時代の区切りが仏教の教えを聞き救いを求める人にとって大変大きく変わってきました。

それが、「三時説」と言われるものです。三時というのは、お釈迦さまがこの世を去られた後に、時間の経過によっていろいろと変わってくることを、三つの時代の区分によってあらわされたものです。

その三つとは、「正法(しょうぼう)」「像法(ぞうぼう)」「末法」のことです。

正法とは、お釈迦さまがこの世を去られてから500年(1000年説もあり)のことで、お釈迦さまの教えもあり、それを実践(修行)する人もあり、証(さとり)を開く人もいる時代です。

像法とは、正法の後1000年の間のことで、お釈迦さまの教えも、実践する人もいるけれども、証を開く人がいなくなる時代です。

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末法とは、像法の後、1万年の間をことで、お釈迦さまの教えは有るけれども、実践する人も、証を開く人もいなくなる時代のことです。

現代は、それでいえば末法になります。しかも、末法になって随分時間がたっています。しかし、正法から像法に変わる時、また像法から末法に変わった時の仏教徒の心中を考えると、とても大きな変化があったに違いありません。なぜなら、証をひらくことが出来なくなったと言うことですから、言い方を変えると「仏教で救われない」ということになるからです。

浄土真宗を開かれた親鸞聖人も、その時代の変化による危機感を大変強く持っておられた方でした。末法の世に、自分が救われる道が果たしてあるのだろうかということを真剣に悩まれていました。そこで、当時修行もできない末法の世の人間が救われる道は、南無阿弥陀仏の救いしかないと説かれる法然聖人にであわれて、南無阿弥陀仏による救いにあわれました。

https://2.bp.blogspot.com/-Zh1wEXPQ3YY/V8jqcclsriI/AAAAAAAA9fo/Re7yQjLPOr8o8uGYfYTWXFqfmkgDn3Q3wCLcB/s800/nigaoe_hounen.png

教えを聞き、その通りに実践し(出家や厳しい修行)、証をひらく道を法然聖人は「聖道門」と言われました。ある限られた人しか進むことが出来ないという意味です。それに対して「浄土門」はどんな人でも救われる道です。ですから、どれだけ時代が変わっても、元号が変わっても、変わらずどんな人も救われる法が、南無阿弥陀仏の救いであると示されたのが親鸞聖人です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

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