アーカイブ

「成人の日」と「成仏の日」2019年01月26日 17:01

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

早いもので、年が明けたと思ったらもう1月も終わりです。1月といえば、成人の日がありました。御自身や、お子さん、お孫さんで今年が成人式だったという方もあるでしょう。

成人とは、文字通り「成長して一人前の人間になること」をいいます。現在は、法律で20歳から成年という扱いにになります。この法律も、改正され2022年4月からは18歳から成年となります。

私自身を振り返ってみても思うことですが、20歳になったからと言って突然「一人前の人になった」という感じはありません。

これは、年齢に限らず、人間は生まれながらにして成人という人はありません。誰しも生まれた頃は赤ん坊です、それがだんだんと大きくなり、やがて一人前の大人となります。

それに対して、「成仏」というのはどうでしょう。成仏とは、文字通り「仏に成る」ということで、仏のさとりをひらくことです。

「あなたの成人の日は?」と聞かれれば、「20歳の1月第2月曜日」と答えることと、思います。では「あなたの成仏の日は?」と聞かれればどうでしょう。

「私が仏のさとりをひらくことなんてあるのかしら?」と思う方もあると思います。確かに、生まれながらに成人がいないように、生まれながらに仏のさとりをひらいている人もありません。

実際、仏教を説かれたお釈迦さまも、生まれながらの仏ではありませんでした。29歳で出家をされてから、さまざまな修行をされ35歳の12月8日に仏のさとりを開かれました。ですから、お釈迦さまの「成仏の日」は「35歳の12月8日」となります。

そこで、お釈迦さまは「あなたも仏のさとりをひらくことが出来ますよ」ということで教えられたのが今日の「仏教」です。ですから、「仏教」とは「仏になる教え」とも読みます。

「仏のさとりを開く」というのは、仏教で言う迷いを離れてもう迷わない身になることをいいます。しかし、そう聞くと「出家して修行しないとなれないのでは?」と思う方もあると思います。

浄土真宗では、出家したり、修行ができないような環境の人でも阿弥陀仏の本願によって生きている間に浄土往生が定まります。そして、その人がこの世の命が終われば速やかに浄土に往生して仏のさとりをひらくというものです。

浄土真宗の教えによって「浄土往生が定まった人」にとっては、「成仏の日」とはすなわち、その人がこの世の命を終えた日ということになります。そのように、なって頂きたいという教えが浄土真宗の教えです。

―――――――――――――――――――――――――――

宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

2019/02/16 アーカイブス法話会のご案内2019年01月26日 16:01

光顔寺では、折々本堂で行われる法話を録画しております。

門徒さんからも「あの時の法話をもう一度聞きたい!」
というご要望をいただくこともあり、
それにお応えして、毎月第3土曜日14時より法話上映会を行っております。

入場は無料です。
光顔寺にある法話の中から、選りすぐりのものを上映させていただきます。
お気軽にご来訪ください。



2019年2月16日(土)

勤行        14:00~
法話上映      14:15~(途中休憩アリ)


御講師       未定

年始に思うこと2019年01月07日 21:01

年が変わりました。みなさん明けましておめでとうございます。

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

とはいっても、この記事も公開は1月1日から何日か経っていますので、すでに仕事にみなさん入られていることかと思います。

年が改まると心機一転ともいいますか、気持ちがリセットされる方も多いと思います。昔から「一年の計は元旦にあり」といいまして、元旦に今年一年の目標を立てようという人もあります。しかし、この言葉はこれ単体ではなく、実際はもっと長くて以下のものです。

「一日の計は朝にあり、一年の計は元旦にあり、一生の計は少壮の時にあり。」

※少壮(しょうそう)=若くて元気のよいこと。また、その年頃。

「計」というのは、「計画」の「計」です。自分で「こうなりたい」というものを立てるということになります。「一日の計」だと、考えやすいです。「今日はこういう仕事をしよう」とか「今日までにここまで終わらせよう」「今日はここに行こう」というように具体的なものがあります。

しかし、「一年の計」といわれるとどうでしょう?受験生なら「志望校に合格」とか、仕事を持っている人は「今年にはここまでいきたい」なとあるでしょう。

それでは、「一生の計」といわれたらどうでしょう?「わたしの人生」として考えた時、本当にしたかったことは何でしょうか?「一生過ぎやすし」(蓮如上人 御文章より)と言われます。人生100年時代と言われていますが、仮に100歳まで生きたとしたら、今の年齢と照らし合わせて見るとあと○○年あることになります。10歳の方は90年(略)60歳の方は40年、70歳の方は30年、80歳の方は20年あります。

そう言われると、何だか焦る気持ちが出ては来ないでしょうか?「あと○○年で出来ることって何だろうか?」と考える人もあると思います。しかし、その「○○年で出来たこと」も、何時かは置いて行かねばならない日が来ます。

それを蓮如上人の御文章に以下のように書かれています。

「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。」(蓮如上人御文章1帖目11通)

(いよいよ死んでいかねばならないときは、それまでたよりにしていた妻子も財産も、私についてきては暮れません。死んだ先にはたった一人で行かねばなりません。)

そう考えると「親のため」「子供のため」「孫のため」と頑張ってきたものは残りますが、「わが身にはひとつもあひそふことあるべからず」ということになります。「私には何も残らない」ということです。

もちろん「自分のことはどうでもいい」という人もあると思いますが、本当にそれでいいのでしょうか?仏教では「仏のさとりをひらく」のが、仏教の目的です。誰のためでもなく、私自身がこの生死を離れて仏になるという教えです。

一年の計は「生死を離れて仏になる」と言うのがいいのではないかと思います。

―――――――――――――――――――――――――――

宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。