【仏教ブログ】海の日から、浄土真宗での「海」についての話
光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。
今年(2023年)7月17日は海の日です。私の近所の海水浴場でも、4年ぶりに海の家が元通りの規模で造られています。
テレビが普及してからは、日本中どこに生まれた人でも海はどんなものかは知る事ができます。しかし、親鸞聖人の時代に海を目の当たりに出来たのは沿岸沿いに住んでいる人だけです。親鸞聖人は、京都にお生まれになられた方なので、35歳で越後に流刑になるまでは海を見た事がなかったと思われます。
初めて見る海から、親鸞聖人はとても大きな印象を受けられたようです。その為か、「海」は限りなく広く深いものとして阿弥陀仏の本願と、そのお働きを譬える時に使われています。
正信念仏偈では
(凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし。
と書かれています。
凡夫も聖者も逆謗といわれる悪人も、阿弥陀仏の本願に救われたならば、いろいろな川の水が海に入ると一味になるように、同じ阿弥陀仏の救いに生かされるということです。
日本にも多くの川があります。大きな川も有れば小さな川もあります。綺麗な川もあれば、いろいろと汚れた川もあります。それらも大きな海に流れ込むと同じ海水の一味になります。また、海はどんな川の水も拒むことはありません。
それと同じように、私たちは一人一人異なります。真面目な人も、不真面目な人も、根気強い人も、飽きっぽい人も、善人も悪人も様々です。そういう自分の有り様と、他人を比べて「こんな自分は……」と気落ちする人も多いと思います。
このような考えを浄土真宗の救いに持ち込む人もおられます。「こんな自分は救われない」「あんな人のようにはなれない」と自分を見限ってしまう人もあります。
しかし、自分がどんなものであったとしても、阿弥陀仏の智慧と慈悲によって転じて海の一味になるようにして下さるというのが「如衆水入海一味」のご文です。そして必ず仏のさとりを開かせて頂けるいうのが、海に譬えられた本願のお働きです。
広い広い海と比べれば、自分というのは本当に小さな存在です。どんな私であっても、一味の海水に転じる救いが阿弥陀仏の救いです。
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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)
Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。