【仏教ブログ】親鸞聖人御誕生850年について、何を慶ぶのかを考える(2)

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の続きです。

ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船(教行信証・総序)

(現代語版)

わたしなりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船

阿弥陀仏という仏様と私の関係は、このような関係があると言われています。阿弥陀仏は「難度海を渡す」と願われ渡そうと働いて下さっています。私はその「難度海を度する大船」に乗せて頂くという関係です。

この大きな船も、本からあるのではなく、私を渡すために作られたものです。言い換えると、阿弥陀仏は元からおられる仏様ではなく、私を救うために仏になられました。私が居なければおられない仏様だと言うことです。

親鸞聖人御旧跡 鹿島神宮(海と鳥居) 親鸞聖人が『教行信証』執筆のために訪れた地

「難度海を度する(渡ることができない迷いの海を渡す)」為に仏になられたのが阿弥陀仏です。迷いというのは、生死を繰り返しているすがたです。生まれて死んでも、また別のものに生まれて死にを繰り返しているのが私だと阿弥陀仏は見ておられます。しかも、そこから自らの力では絶対に出る事ができないものだと見て本願を建てられました。丁度、海に譬えると自分の力ではとても泳いで向こう岸に渡る事ができない状態です。

自らの力ではとても渡りきることが出来ないので、阿弥陀仏はそこを彼岸へと渡す大きな船となって下さいました。これが「難度海を度する大船」です。その大船に私を乗せて必ず浄土へ渡してみせると言うのか阿弥陀仏の本願の働きです。

阿弥陀仏の本願は、そのように苦しみから離れられない私をなんとか浄土へと渡してみせるという船のようなものであると親鸞聖人は教行信証の冒頭に書かれました。

そのことを、親鸞聖人は高僧和讃にこのように書かれています。

生死の苦海ほとりなし

 ひさしくしづめるわれらをば

 弥陀弘誓のふねのみぞ

 のせてかならずわたしける

生死を繰り返し苦しみに果てがない海にいる私を、阿弥陀仏の弘誓の船だけが乗せて必ず渡してくださいます。

浄土真宗は、生きている間に弥陀弘誓の船に乗せて頂き、浄土に往生する身とさせて頂く教えです。そのような身に救われて、親鸞聖人がこのみ教えを開いて下さったからこそと、お互い慶びたいものです。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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