【仏教ブログ】桜の花と親鸞聖人
光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。
今年も桜の季節となって参りましたが、例年と異なり新型コロナウイルス対策で各地で花見の宴会は自粛されています。去る3月25日・26日は東京の桜の名所も封鎖された箇所が幾つもありました。
人は見なくても、桜は今年も咲いております。そして、いつの間にか散ってしまうのもまた桜です。
桜と言えば、浄土真宗では親鸞聖人が比叡山で出家をされる際によまれたと言われる歌が有名です。
それはこんな歌です。
「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
親鸞聖人は、ひ孫である覚如上人によって書かれた「御伝鈔」によると1181年(養和元年)9歳の時に出家をされたと言われています。その時、比叡山で出家をする際には得度の式をしなければなりませんでした。比叡山・天台宗の座主も務められた慈円僧正のもとで出家をすることになったのですが、その日は都合が悪いので明日得度の式をしようという話になりました。その際に親鸞聖人が読まれたといわれているのが上記の歌です。
明日あると思っている桜も、夜に嵐が来るとあっと言う間に散ってしまいます。明日あると思っているうちにその日は来ないかも知れませんと訴えて、その日の内に得度の式をされたという伝承があります。
ぱっと咲いてぱっと散るのが桜の特徴です。そのはかない相から、世の無常をあらわす象徴として歌によく読まれています。人の命も同様に、気がついたら生まれていて、いつまでも生きているかのように思っていると、ある日ぱっと命が散ってしまいます。
親鸞聖人は、そういう人生を感じられて9歳で出家をされました。桜が必ず散るように、自分も必ず死んでいかねばなりません。変わらないものが何一つない無常の世界で、変わらぬさとりの道を求めて出家をされました。
私たちは、今日出家をするという人にあったことのある人は殆どないと思います。しかし、出家をしなくても命に限りがあるということに変わりはありません。桜の花は散れば土へと還っていきますが、私は死ねばどうなるのでしょうか。仏教では、それを生死といわれ生死は果てしなく続き止むことがないと教えられています。
その生死を出て離れる道を教えられたのが仏教です。その仏教を聞いて、どうか生死を離れた世界に出ていただきたいと思います。
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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)
Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。