【仏教ブログ】昨今のコロナウイルス問題から思い出す御文章4帖目9通「疫癘」(2)
光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。
前回の続きです。
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当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。(御文章4帖目9通)
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流行病で多くの人が亡くなることに対する驚きに対して、蓮如上人は「さのみふかくおどろくまじきことなり」と言われています。
当時の人は、病気が流行する原因を、何かの祟りであったり、日の善し悪しに求めてそれを恐れる人も多くいました。しかし、仏教では縁起によって物事を説明されます。縁起とは、業を因として、それが結果として現れるのに縁となるものと合わさって、結果が出てくるというものです。その意味では、病気が因となって死と言う結果が現れたのではなく、生まれたことが因であって、病気は縁となり死と言う結果を表したということです。決して何かの祟りで人が死んだということはありません。
今回の新型コロナウイルスもそのうち終息していくことと思います。そうなれば、時間とともに今回の問題も忘れ去られていくことでしょう。しかし、病は死の縁でしかありませんから、今回のウイルスが終息したからといって死なくなったのではありません。
言い換えれば、病気の対策は出来ても、死ぬ対策はしないまま死を迎えるということです。必ず死なねばならない私にとって、生きることは期間限定のつかの間のことであり、死ぬことは分からないまま迎えなければならないものです。そうなると、生きることも死ぬこともどういう意味があるのか考えてしまいます。
それに対して浄土真宗では、阿弥陀仏の救いを教えられます。
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このゆゑに阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。かかるときはいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、極楽に往生すべしとおもひとりて、一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじきことなり。(同上)
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阿弥陀仏は、罪はどれほど深いものでも、一心に阿弥陀仏にまかせるものは、必ず救うという仏様です。その阿弥陀仏の「必ず救う」の仰せにまかせ、疑うこころ露ちりほどもない身になって浄土に往生する身になるのが、私が生きて死んでいく土台となるものです。
生きていくことも死んでいくことも、この浄土に往生するという土台があってどちらも有り難いものになっていきます。
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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)
Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。