【仏教ブログ】看取り士さんから聞いたこと
光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。
最近、特別養護老人ホームに入っている祖母(96歳)が看取り介護になりました。看取り介護とは、その施設では医者の判断で治療のしようがない状態になった入居者に対して、家族の同意のもとに行われるものです。
内容は、痛み止めを除く延命治療を行わない。残された時間に、本人や家族が望むことを出来るだけ叶える為に対応するということでした。それにあたって施設のスタッフから、本人が最後に行きたいと思っている場所や、食べたいものは何でしょうかと細かく聞かれました。
私はその施設に看取り介護というものがあるのを初めて知り、看取り士の資格をもっている友人に看取りとは何でしょうかと聞いてみました。
看取りの現場で一番大事なことは、看取る側が看取られる人に対して感謝の気持ちを実際に口に出して伝えることだと言われました。兎角身内ほど、面と向かって「有り難う」とはなかなか言いにくいものです。しかし、親であればその親がいなければ今の自分は間違いなく存在していません。感情的にうまくいかない場合もありますが、全くの一人では人間生まれてくることもできませんし、生きていくこともできません。お互いがいなければ、お互いは存在しないという関係性に感謝することで、看取る側も看取られる側も、その感謝の気持ちで平等で同じ気持ちになれるとのことでした。
仏教では、いろいろな苦しみを分けられて「四苦八苦」といわれます。
その内に、愛別離苦というのがあります。文字通り、愛するものと別離する苦しみを言われたものです。「会うは別れの始め」という諺もありますが、出会った人とはいつかは必ず別れなければなりません。中でも一番大きな別れは、死別です。そして多くの場合は、その人の死に目に立ち会うことはできません。それが、葬儀の場での身内や友人の悲しみの原因の一つとなっています。
では、なぜそうなるのかと言えば、いつも思っていても言葉にできなかったことがあるからです。伝えられなかったことがあるからです。それが出来ないと思うからつらく悲しい思いをします。それを生きている間に言葉にして伝えましょうというのが、看取り士の方が勧められることでした。
そうして送り出す側は、伝えたいことを伝えて安心もできます。送られる人は、残していく人への後悔はなくなるとことでしょう。
そこで、考えなければならないのは、ではそうやって看取る側の私もいつかは誰かに看取られる側になるということです。そのとき私はどうなってしまうのでしょうか?避けられない死を前に、本当にすべきことを教えられたのが仏教です。
どうか、仏様の教えを聞いて頂きたいと思います。
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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)
Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。