【仏教ブログ】新しい領解文について思う事
2023年1月16日に本願寺ご門主により新しい領解文が発表されました。
新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)についての消息 | ご門主のお言葉 | 浄土真宗本願寺派(西本願寺) (hongwanji.or.jp)
この内容について、種々議論がおきています。
【重要】浄土真宗本願寺派勧学・司教有志の会より、新しい「領解文」に対する声明を発表|新しい領解文を考えてみよう|note
しかし、あまりお寺とご縁のない人には何が問題になっているのかよく分からないと思います。
そこで、この記事では新しい領解文について、あまり真宗のことを知らない方へ向けて書きます。
領解文とは
そもそも領解文とは何かについて、浄土真宗辞典ではこのように書かれています。
りょうげもん 領解文
浄土真宗の聞信徒が心得るべき信仰上の要点を、安心・報謝・師徳・法度の4段に分けて示したもの、改悔文(がいげもん)ともいい、蓮如の作と伝えられている。 改悔批判において、参拝者が自らの領解を口に出して述べる文言を一定の形式に調ととのえたもので、幾度となく修正が加えられて現在の形になったと考えられている。簡潔な内容で一般の人々にも理解されるよう平易に記されたものではあるが、異安心に対して浄土真宗の正しい意趣をあらわしたものである。
(略)
現在、本願寺派本願寺では御正忌報恩講で行われる改悔批判の際に用いられ、また一般寺院でも法要や法座などのとき唱和される。(浄土真宗辞典)
このように、領解文は各寺での報恩講では参加された皆さんが一堂に唱和してきました。
この浄土真宗辞典の説明にあるように「改悔批判において、参拝者が自らの領解を口に出して述べる文言」として蓮如上人の時代以来受け継いできたものとされています。
「改悔批判」とは、浄土真宗で信心が正しいか否かを判断するものとされています。元々は、蓮如上人の時代に僧侶や門徒が各々自身の信心を告白して、「私の信心はこれで誤り無いでしょうか」と批判を仰いだとするところから始まったとされています。その後、各自がそれぞれ信心を告白する形から、いろいろと修正をされて今日の領解文が成立しました。
信心を批判すると聞くと、耳慣れない人からすると少し驚かれるかもしれません。浄土真宗では、信心とは人それぞれ異なるものではなく、正しいとされる信心とそうでない信心があります。有名な正信偈も、正しくは「正信念仏偈」といって正しい信心と念仏を偈文の形にされたものです。
では正しい信心とはどういうものかということで、一つのひな形として唱和されてきたのが領解文です。
これまでの領解文(全文)
その領解文とは、以下のものです。
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。
この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。
このうへは定めおかせらるる御掟おんおきて、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。
声に出して拝読すると、聞いたことがあるという人もあるかと思います。
「新しい領解文」
この領解文を、また新しくしようということで、今回発表されたのが「新しい領解文」です。
南無阿弥陀仏
「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声
私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ
「そのまま救う」が 弥陀のよび声
ありがとう といただいて
この愚身をまかす このままで
救い取られる 自然の浄土
仏恩報謝の お念仏
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです
み教えを依りどころに生きる者 となり
少しずつ 執われの心を 離れます
生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず
穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも 悲しみも 分かち合い
日々に 精一杯 つとめます
この新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)を僧俗を問わず多くの方々に、さまざまな機会で拝読、唱和いただき、み教えの肝要が広く、また次の世代に確実に伝わることを切に願っております。
令和5年・2023年 1月16日
龍谷門主 釋 専 如
(新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)についての消息 | ご門主のお言葉 | 浄土真宗本願寺派(西本願寺) (hongwanji.or.jp))
今までの「領解文」と「新しい領解文」を並べて読みますと、あまり浄土真宗と縁の無かった人も「違う文章」だということはなんとなく分かられるのではないかと思います。
全てについて言及すると長文になるため、この記事では「領解文」という言葉にあらわされる「信心」の部分について比較していきます。
「領解文」にあって「新しい領解文」にないもの
信心についての部分については、浄土真宗辞典では以下のように書かれています。
りょうげもん 領解文
(略)第1の安心の段には、自力のこころを離れて阿弥陀仏の本願他力にすべてを託する、いわゆる捨自帰他(しゃじきた)の安心が示されている。(浄土真宗辞典)
これに該当する「領解文」の部分は、以下のものです。
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
「自力のこころを離れて」(捨自)に対応するのが「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」です。
「阿弥陀仏の本願他力にすべてを託す」(帰他)に対応するのが「一心に阿弥陀如来、わららが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ」です。
では、「新しい領解文」での、信心の部分はどうなっているかというと、以下の部分にあたります。
南無阿弥陀仏
「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声
私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ
「そのまま救う」が 弥陀のよび声
ありがとう といただいて
この愚身をまかす このままで
一読すると「阿弥陀仏の本願他力にすべてを託す」に対応するのが、上記の全文ということになるかと思います。
そうすると「領解文」にあって「新しい領解文」にないものは「自力のこころを離れて」(捨自)ということになります。
もう一つは「今度の一大事の後生」が「領解文」にはありますが、「新しい領解文」にはありません。
「何が助かるのか」「救いとは何か」について、それは「今度の一大事の後生」(後生の一大事)と「領解文」には示してありますが、「新しい領解文」はそのあたりは曖昧です。
私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ について
「新しい領解文」の中で、一番注目を集めているのがこの部分です。
これは自身の領解としての文章なので、自分の信心として「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」と唱和することになります。仏のさとりを開いた方から見てみれば、自と他の分別ない智慧からすればそのように言うことも出来ます。
ただ、浄土真宗では阿弥陀仏に救われたと言っても、臨終まで煩悩具足の凡夫であると教えられています。その意味では、まず「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」と言うことはありません。いつのまに仏のさとりを開いてしまったのでしょうか?
また、阿弥陀仏の本願は、自分の力で迷いを離れる事ができない私たちを憐れに思われて建てられたものです。「仏のさとり」と「本来一つゆえ」建てられたのではありません。
「自力」とは何か?
このように「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ 「そのまま救う」が弥陀のよび声」という領解では、「自力を捨てて」ということは必要なくなってしまいます。言い換えれば「救われるべきもの、本来仏であるものが仏になるだけである」という領解なので、「そのまま」「このまま」というのも「自然体」といったような意味合いの言葉になってしまいます。
では「自力」とは、浄土真宗では何をさす言葉かというと、浄土真宗辞典には以下のようにあります。
自力
自ら修めた身・口・意の善根によって迷いを離れようとすること。(浄土真宗辞典)
一般に宗教での救いを求める人は、何らかの善いことをしてそれでなんとか助かろうとします。しかし、浄土真宗ではそれは「自力」であり、捨てるものとされます。
なぜならば前述しましたが、阿弥陀仏の本願は「自力によっては救われないもの」を目当てに建てられたものだからです。どれだけ善根を積み重ねたとしても、それによって救われる事はない存在が私というものなのです。
自らの善根によって救われないものだからこそ、阿弥陀仏は南無阿弥陀仏一つで救うという本願を建てられました。そう聞いても、「自分は頑張って救われる人になろう」とするのが自力と言うものです。それは、阿弥陀仏の本願を建てられたそもそもの起こりから疑っていることになるので、本願を聞き入れることができません。
その自力を捨てる(捨てさせられる)というのが、「領解文」の「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」でした。そのような文章が出てくるのは、「どうしたら助かるのか?」という切実な救いを求める心があるからです。
「自力を捨てて」がない理由
人は宗教に「救い」を求めます。「救い」を求める背景にあるのは、現実の苦しみです。それを「領解文」では「一大事の後生(後生の一大事)」と言われました。
後生とは、死後に来るべき生涯、一大事とは最も大事なことという意味です。私の生死の問題を解決して、後生に浄土に往生するかしないかという一大事をいいます。これは、解決出来なければまた生死を繰り返し続けるのだということです。
そういう問題からの「救い」が、浄土真宗での「救い」です。そのため「何としても救われたい」との思いから、「何とか救われようと善根を励む」と考えます。これが自力です。
ですから、「新しい領解文」に「自力を捨てて」がない理由は、「苦しみ」もないし「救いを求める」もないからということになります。浄土真宗の教えや救いが、誰の為にあるのかということが全く抜けているのが問題です。
「このまま死んだらどうなるのか」「何のために今生きているのか」という切実な疑問と苦しみに対して、救いを示すのが浄土真宗の教えです。
元の「領解文」を続けたほうがよい
少なくとも、今苦しんでいる人、その苦しみからの救いを浄土真宗に求めている人にとって、「新しい領解文」では、何の救いにもなりません。個人としては、元の「領解文」を続けていくのがよいと思います。
また、今回のことをご縁として自分自身の領解について考える事で、多くの人が納得する「新しい領解文」を作るべきと思います。
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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)
Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。
まず古い領解文を変える必然性がないと思います。また「次第相承の善知識のあさからざる御歓化の御恩」というところが、新領解文では「歴代宗主の尊いお導きによる」と善知識が宗主に変わっています。歴代とあるから全ての宗主ということになり悪知識もいただろうことを考えるとおかしい。善知識が抜けたことは多いにおかしい。その他新領解文はおかしいことばかり。
現代の方向けにに平易にという意図はわかなないでもないですが、
内容が・・・ お称名
旧来の領解文にも問題があると思いますが、
深く考えずに唱和してきましたが、
どういった問題でしょうか?
門信徒からの今般のことに係る声もまた、反映されるべきではなかろうかと思慮する。
わが真宗においては僧侶も門信徒も御同朋御同行。僧俗共同で長い期間をかけて、新たな「新しい領解文」を構築してゆくべきではなかろうか。その作業によって門信徒の教義に係る理解もさらに深まろう。一部の人達に留まらず全組織・全寺院においてなされるべきと主張したい。従来、あまりにも僧侶中心若しくは僧侶のみの教義解釈リードでなかったか。そのためには、徹底した情報公開(但し門信徒と非真宗者とはその質・量について差異はあるべきと思慮するが最終的には区別無しに移行すべきと考える)。教団手続きや組織のオープン化・民主化。組織機構改革もなんのためのものかを明確になし、その民主的な評価制度も整備すべきである。その辺りの従来の蓄積したヒズミが今回のことに微妙に影響している。
本日(4月12日)御本山慶讃法要に参列したが、「新制御本作法」の後に御門主による「私たちのちかいについての御親教」があり、そして女性リーダーのもと「新しい領解文」と冠した(浄土真宗のみ教え)の唱和が促されたが、多くの参列者は唱和にまでは至らず、驚きや違和感の表情や消極的抵抗の姿勢を感じた。受容されていないのは明白であった。伝蓮如聖人御作の「領解文」が微かに聞こえた。その御仁は周囲の方に不快感を覚えささないよう配意しつつも、御自身の領解として申されていた。それはもう共通模範文の領域を超えた当該念仏者のそれであった。私は大きな感動を覚えつつ、帰途についた。
南無阿弥陀仏
勧学総務の最高権力者が問題が起きて、引退とは極めて奇異である。問題解決をして辞職すべきである。門信徒の範となるべく後始末をせずして夜逃げとは、お粗末である。
天皇陛下も人間宣言され敗戦を国民に伝達されました。 今こそ門主様が門信徒の為になる決断を下してほしい。そのためのご門主様と信じている。自然消滅を考える無能な管理者は目覚めて欲しい。本願寺派僧侶
南無阿弥陀仏