【仏教ブログ】年始の計画に「必ず」はありますか?(2)

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の続きです。親鸞聖人の和讃に「必ず」と書かれたものの一つについて書いていました。


(7)

生死の苦海ほとりなし

 ひさしくしづめるわれらをば

 弥陀弘誓のふねのみぞ

 のせてかならずわたしける(高僧和讃)

(現代語訳)

迷いの世界は苦しみばかりの海のように果てがない。(この海に)遠い過去より沈んでいる私たちを、阿弥陀如来の本願の船は、乗せて必ず渡してくださる。


年始の計画だけでなく、私たちの人生においては予測不可能な事の連続です。そのため、あれこれ考え対策をとっても、思わぬ形でそれが崩されると言うことがよくあります。

しかし、阿弥陀仏は本願で生死の苦海に沈む私を船に乗せて「必ず」渡すと言われています。本願がただの願い事であるならば、「必ず」とは言えません。では、なぜ「必ず」といわれるのかというと、その願いがその通りになるにはどうしたらよいかと長い間考えられ、その上で願った通りになるように行をされたからです。

これを「五劫思惟」「兆載永劫の修行」といわれています。「五劫」も「兆載永劫」もとても考えられないような長い時間をいわれています。それだけの時間をかけて考えられ、その上でそれが実現するように行を修めされました。

将棋の世界でも、人間ではすべてを読み切ることはできません。生死の海に沈んでいる私が、どうすればそこから抜け出ることができるかは、どれだけ考えても考えが及ばないところです。また、今年1年のことをどれだけ考えても「それは想定していなかった」ということが起きます。

阿弥陀仏は、私がどうなったとしても「必ず」救うにはどうしたらよいかということで、長い間考えられました。その結果として、その願いは「必ず助ける」という形で成就しています。

その本願を信じ念仏するものは、必ず浄土に往生させるというのが阿弥陀仏の本願です。阿弥陀仏の本願は、すでに「必ず」助けると成就しています。今年は、その本願を聞いて疑い無い身となって念仏し「必ず」浄土に往生する身とさせていただきましょう。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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