【仏教ブログ】成人の日に読みたい金子みすゞの「さびしいとき」

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

1月半ばになると、成人式が各地で行われニュース報道で、あるいは親戚や知人の話で見聞きします。

成人とは、一人前の人間になったことを意味する言葉です。

私も成人を迎えた頃は、これで自分も一人前だと思っていました。しかし、成人式を経て随分と年月を重ねてみても自分が一人前の人間になったかと問われれば、そうではないという他はありません。それは、一人前の人間というイメージは、一人で立ってなんでも生きていける人間を想像するからです。

確かに、年を重ねると自分で自分の生活を建てていかねばなりません。それでも、心の拠り処なしには人間は生きていくことはできません。

そこで今回は、詩人・金子みすゞさんの「さびしいとき」という詩を紹介します。

さびしいとき

わたしがさびしいときに、よその人は知らないの。

わたしがさびしいときに、お友だちはわらうの。

わたしがさびしいときに、お母さんはやさしいの。

わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。

生きているととさびしいと感じる時があります。そんな時に、自分と縁のない他人はそんなことは知りません。友達は、さびしいときにいつも共感してくれるわけでなく、そんな気持ちも知らずに笑っています。お母さんは、さびしい気持ちを察して優しくしてくれます。最後に、仏様は一緒にさびしい思いになって下さるという詩です。

経済的に自立していくようになると、何でも一人で出来るような気持ちになる時もあります。しかし、食べて行きけるようになっただけで、誰の支えも必要ないような立派な人になったということではありません。さびしき時に心の支えになる人もありますが、ともにさびしい心になって下さるのが仏さまです。

人の苦しみを、自分の苦しみとして感じて下さるだけでなく、その苦しみを何とか抜いてやりたいというのが仏さまの慈悲という心です。自分で気がつかなくても、そういう仏様の慈悲に支えられて生きているのが私たちです。そういう意味ではいつまでも成人とはならず、支えられて生かされていくのが私というものです。

成人の日を迎える方も、すでに成人の方も、自分を支えて下さる存在に目を向けて頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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