【仏教ブログ】浄土真宗での墓参りの意義について
光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。
災害級ともいわれる猛暑が続いています。墓掃除をするにも、早朝以外はとてもできないほどの暑さです。
それでも、今年は4年ぶりに帰省するという人も多くあり、故郷のお墓に手を合わせる人も多く有ると思います。
浄土真宗の家のお墓は、墓石の正面に「南無阿弥陀仏」と刻まれたものが多くあります。浄土真宗以外では「○○家之墓」と刻まれる方も多いと思いますが、この違いはなんでしょうか?
実は浄土真宗でお墓に手を合わせるのは、死んだ人に手を合わせるのではなく、南無阿弥陀仏に手を合わせることになっています。いわゆる「亡くなった方が苦しまないように」という意味で手を合わせたり、線香を立てることはしません。
浄土真宗辞典では「墓」についてこのように書かれています。
はか 墓
亡くなった人の遺体や遺骨を収めるところ。浄土真宗では故人を偲び、故人も遺族もともに阿弥陀仏の慈悲に包まれていることに感謝する縁となるものとされ、墓石に「南無阿弥陀仏」「倶会一処」などと刻むことが多い。
ですから、浄土真宗ではお墓に手を合わせるのは故人を偲ぶ事もちろんのことですが、同じ南無阿弥陀仏の慈悲に感謝する意味があります。
また、南無阿弥陀仏は亡くなった人へ捧げる祈りの言葉でも、供養の言葉でもありません。南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏という仏そのものです。南無というのは、我にまかせよ、阿弥陀仏とは必ず救う仏ということです。南無阿弥陀仏と称える念仏は、阿弥陀仏の「我にまかせよ、必ず救う」という仰せが私の口から出てくださっていることです。
私自身が称えて、私の口から出てくる「言葉」ですが、ただの道具のような言葉ではありません。阿弥陀仏が私を救ってくださる大悲の顕れそのものが、この南無阿弥陀仏です。
お盆に、お墓の前で故人とともに南無阿弥陀仏と念仏申すことは、同じ阿弥陀仏のお助けを称え聞かせていただくということです。日ごろ念仏申すご縁のない方も、ともに南無阿弥陀仏と称え、阿弥陀仏の大悲の招喚の声として聞かせていただきましょう。
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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)
Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。