大切な方とのご縁に学ぶ ~浄土真宗のお見送りと法事の心~

かけがえのない方を亡くされた深い悲しみは、言葉では言い尽くせないほど重く、お辛い日々をお過ごしのことと存じます。あるいは、人生の大きな節目を迎え、これまでの歩みを静かに振り返りながら、これからの日々をより心豊かに、穏やかに過ごしたいと願っていらっしゃる方もおられるかもしれません。そのような時、このささやかなウェブサイトが、皆様の心にそっと寄り添い、確かな「道しるべ」となることができましたら、これほど嬉しいことはございません。

 

人は誰でも、大切な存在との別れを経験します。それは、恋人や配偶者、ご両親、お子様、ご友人かもしれませんし、まだ見ぬ我が子であったかもしれません。その喪失感は計り知れず、「これからどうすればよいのだろう」という戸惑いや不安に包まれるのは、ごく自然なことです。しかし、そのような深い悲しみや問いかけの中にこそ、私たちは故人とのご縁を改めて見つめ直し、いのちの尊さに触れ、そして自らの生きる意味を深く静かに問い直す、かけがえのない機縁をいただくのかもしれません。

 

この「大切な方とのご縁に学ぶ ~浄土真宗のお見送りと法事の心~」と題したページでは、そのような皆様のお気持ちに寄り添いながら、浄土真宗の教えに基づいたお見送りや法事のあり方、そしてそこに込められた温かい心をお伝えしてまいります。

 

直前の「こころと仏事の窓」でも触れさせていただきましたが、私たち浄土真宗本願寺派は、親鸞聖人が明らかにしてくださった、阿弥陀如来という仏さまの「すべての人を、ありのままの姿で必ず救う」という広大なお慈悲の教え(他力本願)を何よりも大切にいたします。それは、どのような人生を歩んでこられた方であっても、どのような深い悲しみや苦悩を抱える方であっても、阿弥陀さまの側から私たち一人ひとりに差し向けられた救いの大きな手の中に、すでに摂め取られ、決して見捨てられることのない絶対的な安心をいただく道です。

 

ですから、浄土真宗では、何かを願ってそれを成就させるための「祈り」や、特定の日に善い行いを積むことで故人の状態が良くなるといった追善供養という考え方はいたしません。阿弥陀さまの「私たちを必ず救う」というお誓いを聞き、それにすべてをおまかせする「信心」一つで、どのような人でも等しくお浄土へ往き生まれ、仏となることができると教えられます。また、仏教の基本的な立場として、そして浄土真宗の教えにおいても、「魂」や「霊」といった言葉は用いません。私たちは、一人ひとりの「いのち」そのものや、故人が生きてこられた中で培われた温かい「お徳」やかけがえのない「お人柄」を、何よりも尊いものとして大切にいたします。

 

そのような教えのもとで営まれる浄土真宗のお見送りや法事は、決して単なる形式的な儀礼や、悲しみを紛らわすためだけのものではありません。それは、まず何よりも、故人を深く偲び、そのご恩に心からの感謝を捧げるための大切な時間です。そして同時に、遺された私たちが、阿弥陀さまの限りないお慈悲の教えに触れ、自らの「いのちの本当のゆくえ(後生の一大事)」、すなわち人生の究極的な意味と確かな安心について深く考え、これからの日々を心豊かに、そして賢明に生きていくための大きな力をいただく貴重なご縁となるのです。

 

この富山市をはじめ、北陸の地は古くから浄土真宗の教えが深く根付き、人々の暮らしと心の支えとなってまいりました。光顔寺は、その温かいみ教えの灯を絶やすことなく、皆様の人生の様々な局面において、そっと心に寄り添い、確かな安心をお届けできる場でありますよう、日々勤めております。大切な方を亡くされた悲しみ、人生の岐路における迷い、あるいは日々の生活の中でのふとした疑問。どのようなことでも、どうぞお気軽にお話しください。

 

そして、大切な方を偲び、そのご縁を永く心に刻み、阿弥陀さまのお慈悲に包まれて心静かにお参りいただける安らぎの場所として、光顔寺では納骨堂もご用意しております。近年、お墓の承継や管理についてご心配される方も少なくありませんが、当寺の納骨堂は、そのようなご不安にも配慮した様々な形がございます。ご見学も随時受け付けておりますので、どうぞお気軽にお声がけください。それぞれの納骨堂の特色や費用についても、皆様の想いにしっかりと耳を傾けながら、丁寧にご説明させていただきます。ご無理のない形で、故人と、そして阿弥陀さまと向き合える、心安らぐ場を見つけていただくお手伝いができれば幸いです。

 

この「大切な方とのご縁に学ぶ」のページでは、皆様が抱える様々な疑問や不安に、より具体的に、そして分かりやすくお応えできるよう、いくつかのテーマに分けて解説を進めてまいります。

 

まずはじめに、「いのちの終焉に寄り添う ~臨終から納棺までのお勤め~」と題し、大切な方が人生の最期を迎えられるその時から、お見送りの準備が整うまでの間、浄土真宗の教えに基づいてどのように寄り添い、お勤めを執り行うのかについて、詳しくご説明いたします。

 

その後も、ご葬儀の具体的な流れや作法、様々な年忌法要の意味と準備、お墓や納骨堂に関する考え方、そして日々の生活の中でみ教えをどのように受け止めていけばよいのかといったことまで、皆様が直面されるであろう様々な場面において、浄土真宗の心がどのように息づいているのかを、できる限り丁寧にお伝えしてまいりたいと存じます。

 

親鸞聖人が生涯をかけて私たちにお示しくださったお念仏の教えは、私たちのような煩悩を抱えた凡夫が、どのような状況や立場にあっても、ただ阿弥陀さまの「必ず救う」というお誓いを深く信じ、お念仏申す身となれば、このいのち終わるとき、必ず仏と成らせていただくという、確かで広大な道です。この教えは、遠く京都の本願寺(西本願寺)より、長い年月をかけて全国各地へ、そしてここ富山市や近隣の地域にも、多くの先人たちの篤い信仰心によって、幾世代にもわたり大切に大切に受け継がれてまいりました。

 

それは、何か特別な修行や難解な教義の完全な理解、あるいは高額な金銭的負担や家柄・社会的地位といった条件を求めるものでは決してありません。ただ、阿弥陀さまの限りないお慈悲に素直に頷き、すべてをお任せする信心一つで、どのような人でも、どのような人生を送った人でも、等しくお浄土に迎えられ、仏となることができるという、広大無辺で、絶対の安心をいただく道なのです。

 

しかしながら、誠に残念なことではございますが、時に、その清らかで誰にでも開かれた親鸞聖人の教えが、一部で独自に解釈され、あたかも厳しい条件や特定の行い、あるいは多額の金銭的・精神的な負担が救われるために必要であるかのように語られたり、お伝えされたりすることがあるやもしれません。もし、どこかで仏教や浄土真宗の教えに触れられた際に、心が晴れやかになるどころか、かえって不安を覚えたり、疑問を感じたり、あるいはご自身やご家族にとって過度な要求をされたりするようなご経験がございましたら、どうぞ、親鸞聖人が本当に私たちに伝えたかったお心の何たるかを、今一度、静かに尋ねてみてください。そして、どうぞご遠慮なく、私たち光顔寺、あるいはご近所の浄土真宗本願寺派のお寺にご相談ください。本来の浄土真宗の教えは、どこまでも温かく、私たちをありのままに包み込んでくださるものなのですから。

 

このウェブサイトでのささやかなご縁が、皆様の心に温かな灯をともし、深い悲しみの中にも確かな希望を見出し、心穏やかな日々をお送りいただくための一助となれば、これに勝る喜びはございません。

 

どうぞ、ごゆっくりと各ページをご覧いただき、ご不明な点やご相談事がございましたら、どのようなことでも結構ですので、お気軽に光顔寺までお寄せください。皆様からのお声に真摯に耳を傾け、誠心誠意お応えしてまいりたいと存じます。