仏弟子としての新たな歩み ~おかみそり(帰敬式)~
前のページでは、お通夜の夜に故人さまと共に過ごし、阿弥陀さまのみ教えに耳を澄ますことの大切さをお伝えいたしました。故人を偲び、そのご縁に感謝し、仏法を聴聞する時間は、深い悲しみの中にある私たちに、確かな心の支えと生きる智慧を与えてくれます。
さて、お通夜に続き、あるいはご葬儀の中で執り行われることのある、浄土真宗本願寺派における非常に大切な儀式の一つに「おかみそり」、正式には「帰敬式(ききょうしき)」がございます。この「仏弟子としての新たな歩み ~おかみそり(帰敬式)~」と題した章では、この帰敬式がどのような意味を持つのか、そして故人さまや私たち遺された者にとって、なぜこれほどまでに尊い儀式とされるのかについて、できる限りわかりやすく、そして皆様の心に寄り添いながらご説明してまいります。
「おかみそり」と聞くと、実際に髪を剃る儀式を想像されるかもしれませんが、現代の浄土真宗本願寺派の帰敬式では、多くの場合、実際に髪を剃ることはございません。これは、形ではなく、その心、つまり「仏さまの弟子として、阿弥陀さまの教えを人生の依り所として生きていきます」という心のすわり(意思の表明)を最も大切にするからです。かつて僧侶になる際に行われた剃髪の儀式にその名残を留め、仏弟子となることの象徴的な意味合いが込められているのです。
この帰敬式は、私たちが阿弥陀如来という仏さまの限りない智慧と慈悲の教えに帰依し、「仏弟子」として新たな人生を歩み始めることを誓う、厳粛で晴れやかな儀式です。それは、人生という大海原を航海する私たちにとって、確かな羅針盤を得るようなものであり、どのような時も私たちを照らし、導いてくださる阿弥陀さまの光の中に迎え入れられることを喜び、その教えを依り所とさせていただくことを意味します。
· なぜ葬儀で「おかみそり(帰敬式)」を行うのでしょうか
- 本来、この帰敬式は、ご自身が「阿弥陀さまの教えを心の拠り所として、これからの人生を歩んでいきたい」と願われた時に、生前にご本山(京都の西本願寺)やお手次のお寺などで、自らの意志でお受けになるのが最も望ましい形とされています。それは、ご自身の人生における主体的な決断であり、新たな生き方への出発点となるからです。
- しかし、様々なご事情で、生前にその尊いご縁に恵まれなかった故人さまのために、ご遺族の深い願いにより、ご葬儀(多くはご出棺の前など)に際して、特例として僧侶がこの帰敬式を執り行うことが、浄土真宗本願寺派では認められています。これは、故人さまが生前どのようなご縁にあったとしても、阿弥陀さまの教えに導かれるひとりの尊い仏弟子としてお浄土へ往かれるお方であることを敬い、そのお姿を荘厳させていただきたいという、遺された方々の切なる思いと、故人さまへの深い敬愛の心の表れなのです。この儀式を通して、故人さまは阿弥陀さまの【摂取不捨(せっしゅふしゃ)】のお慈悲、つまり「すべての人々を必ず摂め取って、決して見捨てない」という広大な光明の中に完全に包まれていることを、私たち遺族も改めて心で確認し、深い安心をいただくことができます。
· 帰敬式でいただくもの – かけがえのない「法名(ほうみょう)」
- 帰敬式をお受けになると、仏弟子となった証として「法名(ほうみょう)」が授与されます。法名とは、阿弥陀さまの教えに生きる者として、新たにいただく大切なお名前です。それは、単なる戒名や死後の名前ということではなく、この世のいのちを終えた後も、お浄土で仏さまとして呼ばれる、永遠に続く尊いお名前なのです。
- この法名をいただくことは、私たちが阿弥陀さまの家族の一員となり、お念仏の道を歩む仲間入りをさせていただくことを意味します。それは、故人さまにとっても、そしてまた、生前に帰敬式を受けられる方にとっても、人生における大きな喜びであり、心の拠り所となるでしょう。
· 「おかみそり」の現代的な意義 – 様々な想いを抱える皆様へ
- 人生の大きな節目や、大切な方を亡くされた深い悲しみの中で、この「おかみそり(帰敬式)」という儀式は、私たちに様々な気づきと心の安らぎを与えてくれます。
- これまで仏教や浄土真宗にご縁がなかった方にとっては、この儀式を通して、初めて仏さまの教えに触れ、人生の根本的な問い(例えば、いのちはどこから来てどこへ行くのか、何のために生きるのかなど)について考えるきっかけとなるかもしれません。それは、ご自身の精神性を深め、より豊かな人間性を育むための、貴重な第一歩となることでしょう。
- また、もしこれまでの宗教的な体験の中で、形式的な儀式や、特定の組織への絶対的な服従、あるいは何らかの権威的な教えに疑問や違和感を覚えてこられた方がいらっしゃるとすれば、浄土真宗の帰敬式は、そのようなものとは全く異なる体験となるかもしれません。ここには、個人の内面的な自覚と、阿弥陀仏という絶対的なお慈悲の仏さまへの、自発的で純粋な帰依の心こそが尊重されます。高額な金銭的負担を強いたり、厳しい修行や難解な教義の理解を求めたりすることもございません。
- 仏弟子となることは、社会から離れて特別な生活を送るということではありません。むしろ、阿弥陀さまの智慧と慈悲の眼差しをいただくことで、日々の生活の中で、他者への思いやりや感謝の心を育み、より深く、そして温かく社会と関わっていくための新たな視点と力を得ることなのです。
- そして、これまで浄土真宗の法話などを聞く機会はあったものの、「往生浄土」や「成仏」、「信心獲得」といった言葉が、今ひとつ自分自身の問題として具体的に感じられなかったという方にとっても、この帰敬式という儀式は、それらの教えがご自身の生き方と深く結びついていることを実感する、またとない機会となるはずです。
· 地域性と儀式のあり方
- 例えば、古い町並みや豊かな伝統文化が今も息づく飛騨の高山市などでは、古来より人々の暮らしの中に仏教が深く根付き、人生の様々な儀礼が大切に受け継がれてきました。そうした地域で育まれた、目に見えないものへの畏敬の念や、ご先祖を敬う篤い心は、浄土真宗の帰敬式が持つ普遍的な意味合いとも深く響き合うものがあるでしょう。
- 近年、新潟市のような都市部では、ご葬儀の形態も多様化し、例えば一日葬といった、時間的・経済的な負担を軽減した形を選ばれる方も増えてきました。しかし、そのような現代的な流れの中にあっても、「おかみそり(帰敬式)」という儀式を通して故人に法名を授け、仏弟子として鄭重にお見送りしたいという願いは、多くのご遺族の心の中に大切に持ち続けられています。どのようなお寺であっても、この帰敬式は、故人さまと遺された私たちにとって、計り知れないほど大きな意味を持つ、尊いお勤めなのです。
· おわりに – 新たな歩みへの心の準備
- この「仏弟子としての新たな歩み ~おかみそり(帰敬式)~」の章では、帰敬式の具体的な内容や、その儀式に込められた浄土真宗の心、そしてそこで私たちが何を大切にすべきかについて、さらに詳しく掘り下げてまいります。
- この儀式が、故人さまにとっては阿弥陀さまのお慈悲に抱かれる確かな証となり、そして私たち遺された者にとっては、深い悲しみの中にも大いなる安心と、これからの人生を力強く歩むための心の準備をもたらすものであることを、この後のページで詳しくお伝えできればと願っております。
それでは、次の「【帰敬式とは】阿弥陀さまの導きを受け、仏弟子として生きることを心に定める儀式」のページで、帰敬式のより具体的な意味や内容について、共に学んでまいりましょう。