感謝を込めたお見送りの荘厳(おしょうごん) ~ご納棺のお勤め(納棺勤行)~

臨終勤行を終え、大切な故人さまと過ごす限られた、かけがえのない時間のなかで、私たちは次なる儀式へと進みます。それは、故人さまを阿弥陀如来のおわします清らかなお浄土へとお送りするための、敬虔で心温まる大切なお勤め、「納棺勤行(のうかんごんぎょう)」です。この儀式は、単にお身体を棺に納めるという物理的な作業ではございません。故人さまが阿弥陀さまの仏弟子として、その生涯を全うされた尊厳を保ち、清らかに荘厳(しょうごん)されたお姿でお浄土へ往かれるためのお手伝いをさせていただく、深い意味を持つものです。

この「お見送りの荘厳」とも言える納棺勤行の時間は、遺された私たちが、故人への尽きない感謝と深い敬愛の念を形として表し、故人が生前に私たちに遺してくださった数々の温かい「お徳」や、かけがえのない「お人柄」を静かに偲ぶ、厳粛でありながらも心温まるひとときです。慌ただしい時間のなかで、ふと立ち止まり、故人さまとの思い出を胸に、阿弥陀さまのお慈悲に触れさせていただく。そのことを通して、私たちは、いのちの尊さや故人とのご縁の深さを改めて心に刻み、故人さまが示してくださった生き様から、これからの私たちが生きていく上での大切な糧をいただくのです。

浄土真宗の教えでは、いのちの終わりは、決して悲しみや恐れだけの出来事ではありません。それは、阿弥陀さまの限りない光明(ひかり)に摂め取られ、この迷いの世界(娑婆)のあらゆる苦しみから解放されて、お浄土で仏さまとして新たに生まれる「往生即成仏(おうじょうそくじょうぶつ)」という、絶対的な安心の世界への確かな移行であると教えていただきます。そこには、私たちの側の能力や行いの善し悪し、あるいはご準備された費用の多寡といった条件は、一切問われることがございません。

もし、これまでの信仰や様々な教えに触れる中で、心の平安を得るどころか、かえって不安を覚えたり、厳しい条件や「何か特別なことをしなければ救われないのではないか」といった思いに悩まされたりしたご経験をお持ちの方がいらっしゃるかもしれません。あるいは、特定の教えや組織のあり方に疑問を感じ、心の拠り所を見失いかけている方もおられるかもしれません。どうぞ、ご安心ください。親鸞聖人が私たちに明らかにしてくださった本来の浄土真宗の教えは、決してそのようなものではございません。

阿弥陀さまの「どのようなものであっても、ありのままの姿で必ず救う」というお誓いは、すでに、他の誰でもない、この私たち一人ひとりに、余すところなく差し向けられています。私たちのありのままの姿、そのままを阿弥陀さまはご覧になり、ただちに救い取ってくださるのです。特別な修行や難解な教義の理解、あるいは多額の金銭的負担を求めることもございません。ただ、その広大無辺なるお慈悲にすべてをお任せする「信心」ひとつで、どのような人生を歩んでこられた方であっても、どのような悩みを抱える方であっても、誰しもが等しく仏とならせていただく道が開かれています。この浄土真宗の作法や儀式もまた、その阿弥陀さまのお慈悲への深い感謝と、すべてをお任せする心を形に表したものであり、故人さまと、そして遺された私たち自身が、そのお救いの確かさを改めて確認させていただくための大切なご縁なのです。

私たち光顔寺が本堂を構える魚津市、富山市、そして小矢部市をはじめとする富山県、またお隣の石川県は、その素朴で揺るぎない信心が、人々の生活の中に深く息づき、豊かな精神文化を育んできた土地柄です。遠くインドで生まれ、中国大陸、そしてベトナムなどアジアの国々を経て、遠く日本へと伝わった仏教の悠久の歴史のなかでも、特に親鸞聖人のみ教えは、時代の変遷のなかで、常に弱い立場の人々や、悩み苦しむ民衆の心に温かく寄り添い、生きる希望と確かな安心を与え続けてきました。

この「感謝を込めたお見送りの荘厳」の章では、納棺勤行の具体的な意味合いやその流れ、そしてそこに込められた浄土真宗の心について、さらに詳しく解説してまいります。故人さまを仏弟子として敬い、心からの感謝を込めてお見送りするための「最後のお支度」ともいえるこの大切な儀式について、次の「【納棺勤行の意味】故人さまを仏弟子として敬虔にお送りするお支度」で、より深く掘り下げてまいりましょう。この章を通して、皆様の心が少しでも軽くなり、故人さまとのお別れに、より穏やかなお気持ちで臨んでいただけますことを心より願っております。