【納棺の作法 富山 石川】地域での一般的な流れと浄土真宗の考え方

石川県や富山県における一般的な納棺の流れに触れつつ、浄土真宗における納棺勤行の本来の意義と、故人さまへの敬意を表す心のあり方をお伝えします。

前の項では、納棺勤行が故人さまを仏弟子として敬虔にお送りするための、深い愛情と敬意に満ちた、何よりも大切な儀式であることをお伝えいたしました。それは、故人さまがこの世での役割を終え、阿弥陀さまの光明に摂め取られてお浄土へ往き生まれ、仏としての新たな一歩を踏み出される、その尊厳なるお姿を荘厳させていただくお勤めです。

この項では、その納棺勤行を執り行うにあたり、より具体的にどのような流れや作法があるのか、特にここ富山県や、文化的な繋がりも深いお隣の石川県における一般的な慣習にも触れつつ、それらに対する浄土真宗の考え方、そして何よりも私たちが大切にすべき「心」のあり方について、詳しくご説明させていただきます。

納棺は、故人さまとのお別れに向けて、私たちの手で故人さまのお身体を清め、整え、そしてお棺へと穏やかにお納めする、きわめて重要で、心情的にも深い意味を持つ儀式です。それは、言葉にできないほどの悲しみと寂しさを伴う一方で、故人さまへの尽きない感謝と敬愛の念を形として表す、最期の貴重な時間でもあります。この時間をどのように過ごすかは、遺された私たちの心に大きな影響を与え、故人さまとの絆を再確認し、自らのいのちを見つめ直す機縁ともなり得るのです。

富山・石川における一般的な納棺の流れと、そこに込められた想い

現代において、ご逝去からご葬儀までの時間は限られており、多くの場合、納棺の儀は、ご遺族のご意向を丁寧にお伺いしながら、葬儀社の担当者が専門的な知識と技術をもって、心を込めて進めてくださることが一般的です。

その流れの中には、

  • 故人さまのお身体を温かいお湯で清める「湯灌(ゆかん)」
  • 生前の穏やかなお顔に近づけるよう整える「死化粧(しにげしょう)」
  • そして、清浄な衣類や、時には伝統的な白木の「死装束(しにしょうぞく)」をお着せする といった儀礼が含まれることがあります。

これらのひとつひとつの丁寧な営みは、故人さまが現世で負われたかもしれない様々なご苦労や、病の痛み、そしてあらゆる汚れを洗い清めたいという、ご遺族の深い愛情の表れに他なりません。阿弥陀さまに抱かれ、お浄土へ往き生まれ仏となられる故人さまの尊厳あるお姿を、大切にお見送りさせていただく、という気持ちがそこに込められています。また、故人さまの穏やかだった頃のお顔を少しでも長く記憶に留めておきたい、美しいお姿でお見送りしたいという、切なる願いもそこに込められています。

富山県や石川県、例えば加賀百万石の文化が華開いた金沢市の優美な伝統工芸や、あるいは古くから仏教彫刻の盛んであった井波(現・南砺市)の木彫りの技など、この地域には、目に見えないものへの畏敬の念や、美意識、そして手仕事の温もりを大切にする文化が息づいています。そうした精神性が、納棺の際の故人さまへの手厚い配慮や、儀式に対する敬虔な心にも、どこか通じているのかもしれません。

「湯灌」につきましても、そのやり方は様々ですが、単にお身体を物理的に清潔にするというだけでなく、ご遺族が故人さまのお身体に最後に触れ、感謝の言葉をかけながら、この世での別れをより深く実感し、少しずつ心の整理をつけていくための、かけがえのない時間となることもございます。それは、時に辛く、悲しい行為かもしれませんが、故人さまへの最後の奉仕として、言葉では伝えきれないほどの深い愛情を伝えることのできる、貴重な機会とも言えるでしょう。

葬儀社の担当者の方々も、日々多くのご葬家と接し、心を込めてその務めを果たしてくださっています。しかしながら、仏教には多くの宗派があり、それぞれの教義や儀式の細やかな作法、その背景にある深い意味合いまでを全て熟知することは、専門職である僧侶にとっても研鑽を要することです。そのため、**もし浄土真宗の教えに則った、より心からの納得と安心のいくお見送りをとお考えの際には、儀式の細部やその意味について、事前に当寺のような浄土真宗本願寺派の専門の僧侶にご相談いただくことをお勧めいたします。**それにより、当日になって「これでよかったのだろうか」というご不安を抱かれることなく、故人さまのお見送りに専心していただけるかと存じます。

浄土真宗における納棺勤行の考え方と、大切にしたい「お支度」

さて、こうした一般的な納棺の流れや、そこに込められた温かい想いを踏まえつつ、私たち浄土真宗では、納棺勤行をどのように捉え、どのような「お支度」を大切にするのでしょうか。

「旅支度」ではなく「仏弟子としての荘厳(おしょうごん)」とお召し物について

浄土真宗の教えにおける納棺の際の大きな特徴として、いわゆる「死装束(しにしょうぞく)」を必ずしも用いないという点が挙げられます。その理由は、浄土真宗の根本的な死生観に由来します。親鸞聖人が明らかにされたみ教えでは、阿弥陀仏の「必ず救う」というお誓い(本願)を信じ、お念仏申す身となった人は、この世のいのちが終わると同時に、阿弥陀仏の限りない光明に摂め取られ、ただちに清浄なお浄土に往き生まれ、仏としての新たな尊いあり方をいただく(これを「往生即成仏」といいます)とされています。

つまり、お浄土へは、私たちが想像するような困難な「死出の旅」を経て辿り着くのではなく、阿弥陀さまのお力によって、瞬時に、そして間違いなく往き生まれるのです。そのため、その「旅」のための準備である死装束(例えば、経帷子(きょうかたびら)、手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、頭陀袋(ずだぶくろ)といったもの)は、浄土真宗では本来必要ないと考えます。

では、どのようなお姿でお送りするのがよいのでしょうか。 故人さまが生前愛用されていたお洋服やパジャマなど、清潔で、その方らしいお召し物で十分でございます。あるいは、ご遺族が「これを最後に着せてあげたい」と願われるお洋服でも結構です。それが、故人さまにとって何より安らげる「お支度」となり、また、遺された私たちにとっても、故人さまをより身近に、そして生前の温かいお姿のままお見送りできる、心のこもった大切な時間となるでしょう。

もし白衣(びゃくえ・しろぎぬ)をお着せになる場合、浄土真宗では特に決まりはございませんが、一般的に仏教の慣習として、清浄さを表すために用いられることがあります。その際、**お着物の襟の合わせ方は、ご存命の時と同じように「右前(みぎまえ)(右の衽(おくみ)を下に、左の衽を上に重ねる)」**で整えます。これは、他の宗派などで死装束を「左前(ひだりまえ)」に着せることがあるのとは異なります。浄土真宗では、故人を特別な「死者」として扱うのではなく、阿弥陀さまのお浄土で仏として生き続ける方として敬うため、自然な形でお送りします。

また、お顔に白い布を掛ける慣習もございますが、これも必ずしなければならないというものではありません。死装束の一部というよりは、お顔を保護する、あるいはご遺族のお気持ちとして、故人さまのお顔を覆って差し上げたいという場合に用いられることがあります。

湯灌や死化粧といった行為も、故人さまの生前の尊厳を守り、清らかなお姿でお送りしたいというご遺族の温かいお気持ちの表れであり、その心は浄土真宗の精神にも深く通じるものです。大切なのは、形式に過度に囚われることよりも、故人さまを敬い、心からの感謝を捧げるその想いです。

お棺に納めるもの – 感謝の心を添えて

浄土真宗では、お棺の中に納めるもの(副葬品)については、故人さまの執着を増長させるようなものや、火葬の際に支障となるような金属製品やガラス製品、プラスチックなどの不燃物は避けるのが基本的な考え方です。お浄土は、あらゆるものが円満に満ち足りた世界であり、この世の物質的なものを必要とはしないからです。

しかし、故人さまが生前大切にされていたお写真(他の存命の方が写っていないもの)、お好きだったお花(生花)、あるいはご家族からのお手紙など、少量で可燃性のものであれば、感謝の気持ちと共にお納めすることは、遺された方々の心の区切りや慰めとなることもございますので、一概に否定されるものではありません。近年では、ご遺骨の一部だけでも手元に置いて供養したい、というお声も耳にしますが、それも故人を偲ぶ多様な形の一つでしょう。副葬品についてお迷いになるようでしたら、どうぞご遠慮なく私たち僧侶にご相談ください。故人さまの尊厳と、ご遺族のお気持ち、そして火葬場の規則などを総合的に考え、丁寧にお答えさせていただきます。

そして、何よりも大切にさせていただきたいのは、前の項「【納棺勤行の意味】故人さまを仏弟子として敬虔にお送りするお支度」でも触れました通り、故人さまの胸元などに「南無阿弥陀仏」のお名号が書かれたものをそっと置かせていただくことです。これは、故人さまが常に阿弥陀仏のお慈悲のなかに抱かれ、決して独りではないことを象徴し、私たち自身の心にも深い安心を与えてくれます。

勤行(おつとめ)– 阿弥陀さまへの感謝と故人を偲ぶ心

ご遺族や近親者の方々がお集まりの中、僧侶が読経し、お焼香をいたします。皆様もご一緒に静かに合掌し、お念仏「南無阿弥陀仏」をお称えください。このお勤めの時間が、故人さまを仏弟子として敬虔にお送りする、浄土真宗の納棺勤行の中心となります。それは、故人さまへの感謝と、阿弥陀さまの広大なお慈悲への感謝を新たにする、厳粛で心温まるひとときです。

形式よりも心が大切 – 浄土真宗のスタンス

富山県や石川県には、それぞれの地域やご家庭によって、長年受け継がれてきた様々な納棺の際の慣習があるかと存じます。私たちは、そうした地域の文化や伝統を尊重し、決して一方的に否定するものではありません。

しかし、浄土真宗が最も大切にいたしますのは、どのような外面的な形式やきらびやかな飾り付けよりも、故人さまへの深い感謝と敬愛の念、そして阿弥陀さまの「必ず救う」というお誓いを疑いなく信じ、すべてをお任せする「信心」であります。どのような湯灌のやり方であり、どのようなお召し物であり、どのようなささやかなお供えであったとしても、それらはすべて、故人さまを偲び、阿弥陀さまのお慈悲に感謝する大切な行いです。阿弥陀さまの教えを聞かせていただく中で、そこに感謝と敬いの心が自然とこもる時、私たちにとって、それが何より尊いお見送りとなるのです。葬儀の形態も近年は多様化しておりますが、ここ富山の地でも、その心は変わりません。

ご不安なことや疑問に思われることがございましたら、「こうしなければならないのではないか」「あれが足りないのではないか」とご自身を追い詰められるのではなく、どんな小さなことでも、どうぞ私たち光顔寺の僧侶にご相談ください。浄土真宗の教義や儀礼について日々研鑽を積み、深く理解している僧侶が、皆様のお気持ちに寄り添い、丁寧にお答えすることで、皆様が心からの安心を得て故人さまをお見送りできるようお手伝いさせていただきます。浄土真宗の教えは、決して皆様を縛るものではなく、むしろあらゆる束縛から解放し、絶対的な安心を与えるものだからです。

悲しみと向き合い、いのちを見つめる時間として

納棺の儀は、故人さまのお身体に直接触れることのできる最後の機会となることも多く、言葉にできないほどの深い悲しみや、どうしようもない喪失感を覚える、非常にお辛い時間でもあります。涙が溢れるのは当然のことですし、そのお気持ちを無理に抑える必要はございません。しかし、その深い悲しみのなかで、故人さまとの思い出を一つひとつ心の中で確かめ、感謝の言葉を心の中で(あるいは、もしよろしければ声に出して)お伝えすることは、ご自身の心の整理をしていく上で、そしてこれからを生きていく上で、非常に大切なプロセスとなることでしょう。それは、故人さまが私たちに遺してくださった、最後の、そして最も深い対話の時間なのかもしれません。

この厳粛な儀式は、単なるお別れのセレモニーとして捉えるだけでなく、私たち自身の「いのち」のあり方や、人生の終焉という、誰もがいつかは向き合わなければならないテーマについて、深く思索を巡らせる貴重な機会ともなり得ます。故人さまの尊いご生涯を通して、阿弥陀さまが「限りあるいのち」を生きる私たちに、何を伝えようとしておられるのか。その教えに耳を傾け、自らのいのちの行き先をあらためて見つめ直す、かけがえのないご縁となるのです。それは、日々の慌ただしい喧騒から一時離れ、ご自身の内面と静かに向き合い、精神的な深まりや新たな気づきを得るための、かけがえのない時間となるかもしれません。例えば、フランスの思想家や文学者たちが古来より人間の存在や死について深く探求してきたように、私たちもまた、故人の尊いお姿を通して、自らの生の意味を問い直し、より豊かに生きるための智慧をいただくことができるのではないでしょうか。この準備された時間は、故人からの最後の贈り物とも言えるかもしれません。

故人を偲ぶ安らぎの場として

このように丁重にお見送りされた故人さまを、その後も心静かに偲び、阿弥陀さまのお慈悲に触れ、また、ご自身の心の拠り所としてお参りいただける場所として、光顔寺では皆様の様々なご事情やご要望にお応えできる納骨堂もご用意しております。ご葬儀後のご供養についてもお気軽にご相談いただければと存じますので、心の片隅に留め置いていただければ幸いです。

おわりに:お通夜、そしてその先へ

納棺勤行は、故人さまを敬い、阿弥陀仏のお浄土へとお送りするための大切な「荘厳(おしょうごん)」であると同時に、遺された私たちが故人さまへの感謝を深め、阿弥陀仏の教えに触れて心の平安を得るための、きわめて重要な儀式です。このお勤めを通して、私たちは故人さまとの絆を再確認し、阿弥陀さまの温かいお慈悲に包まれて、次なるお通夜へと心静かに進んでまいります。

この後、故人さまと共に過ごす最後の夜である「お通夜のお勤めと大切な心得」について、詳しくご説明いたします。