悲しみを越えて新たな一歩 ~百か日法要(卒哭忌)~
四十九日を終えて迎える、百か日という大きな節目。それは「卒哭忌」とも呼ばれ、深い悲しみから、故人への感謝を胸に新たな一歩を踏み出すための大切な法要です。その意義と心のあり方をお伝えします。
四十九日(満中陰)法要という大きな区切りを終え、月参りという新しいリズムで故人さまを偲ぶ日々が始まってから、最初に迎える大きな節目が「百か日法要」です。
この法要は、別名「卒哭忌(そっこくき)」とも呼ばれます。「哭(こく)」とは、声をあげて激しく泣き叫ぶこと。「卒」とは、そこから卒業することを意味します。つまり、「卒哭忌」とは、ただただ涙に暮れるような深い悲しみの段階から、一つの区切りをつけ、新たな心のステージへと歩み出すための節目、という意味が込められています。
もちろん、これは「もう泣いてはいけない」「悲しんではいけない」ということでは、決してありません。大切な方を亡くした寂しさは、生涯続くものでしょう。そうではなく、どうしようもない悲しみの涙が、少しずつ、故人さまと出遇えたことへの温かい感謝の涙へと、その質を変えていく。その大切な心の転換点を、この百か日という節目は、私たちに優しく示してくれます。
浄土真宗における百か日法要は、故人のためではなく、この心の転換期を迎えた、遺された私たちのための大切な仏法聴聞(ぶっぽうちょうもん)のご縁です。
故人さまの思い出を、単なる悲しい記憶として終わらせるのではなく、これからの私たちの人生を照らす、温かい光として受け止め直す。そして、故人さまが仏となられたお浄土に、いずれこの私もまた生まれる身であると、阿弥陀さまの教えを通して確認させていただく。
この法要は、そのような、悲しみを乗り越えるための、そして感謝と共に新たな一歩を踏み出すための、力強い智慧と安心をいただく、かけがえのない「つどい」なのです。
それでは、次の「【百か日法要】百日の節目、涙の向こうに確かな眼差しを」のページで、このお勤めが持つ、より深い意味について共に学んでまいりましょう。

