
【百か日法要】百日の節目、涙の向こうに確かな眼差しを
故人さまが亡くなられて百日目に行う百か日法要(卒哭忌)は、深い悲しみを乗り越え、新たな一歩を踏み出すための大切な節目です。その意味と心の持ち方をお伝えします。
故人がこの世のいのちを終えられてから、ちょうど百日目にあたる日にお勤めするのが「百カ日法要」です。この法要は「卒哭忌(そっこくき)」とも呼ばれます。「卒」は終える、「哭」は声をあげて泣くという意味から、「悲しみに打ちひしがれて泣き叫ぶような日々から、一つの区切りをつけて卒業する」といった、心の成長や変化を表す意味合いが込められています。仏教では、あらゆるものは移り変わる(諸行無常)と説かれますが、私たちの心の状態もまた、時と共に少しずつ変化していくのです。
もちろん、百日経ったからといって、大切な方を失った深い悲しみが完全に消え去るわけではありません。寂しさや恋しさは、これからも心の中にあり続けるでしょう。しかしこの百カ日という節目は、溢れ出る涙に明け暮れていた時期から、少しずつ心が落ち着きを取り戻し、故人が遺してくださった人生の軌跡や、そこから学んだ大切な教えを、以前よりももっと深く穏やかな気持ちで受け止められるようになる、そんな新たな心のステージへの移行を、そっと後押ししてくれます。
そして、この法要は、故人がその生涯をかけて身をもって示してくださった「いのちのご縁」を頼りに、私たちが仏法を聴聞(ちょうもん)させていただく大切な機会です。故人への尽きせぬ感謝の思いを胸に、阿弥陀さまの前に静かに座る時、私たちは自分自身の「いのちの本当のゆくえ(後生の一大事)」について、あらためて深く考えるご縁をいただきます。
それは、決して遠い未来のことではなく、今この瞬間から阿弥陀さまのお救いを信じ、心豊かに生きるための大切な問いかけです。この問いに向き合うことで、私たちは、ただ悲しみに沈むだけでなく、故人の願いを受け止め、前を向いて生きていくための、確かな心の支えと智慧をいただくのです。この百カ日法要は、故人への感謝と共に、私たち自身の新たな一歩を心に定める、かけがえのない節目となるでしょう。
