1.4.2.7【四十九日法要(満中陰法要)】いのちの節目、正しい理解と感謝、そして未来への願い

四十九日(満中陰)は、故人のためだけでなく、遺された私たちが仏法に出遇うための、故人が遺してくださった最後の尊いご縁です。その正しい意味と、私たちがこのご縁をどう生きていくべきかについて解説します。

故人がこの世のいのちを終えられてから四十九日目。一般に「満中陰」や「忌明け」などと呼ばれ、一つの大きな区切りとして大切にされている節目です。

多くの仏教宗派や古くからの日本の習慣では、この四十九日間を「中陰」と呼び、故人のいのちが次の世界へ生まれ変わるまで旅をする期間と考え、特にこの四十九日は、最後の審判があり来世の行き先が決まる重要な日とされることもあります。

しかし、私たち浄土真宗本願寺派の教えでは、このような考え方はいたしません。 阿弥陀さまの「すべての人を必ず救う」という本願のお約束を信じ「南-無阿弥陀仏」のお念仏を申す人は、いのち終えると同時に、ただちに光り輝く仏さまの世界(お浄土)へ往き生まれ、ご自身もまた尊い仏さまになると教えていただきます(即得往生)。ですから、死後にさまよったり、私たちの行いによって故人の行き先が変わったりするという考え方はないのです。

では、「法要はしなくても良い」のでしょうか。決してそうではありません。 むしろ、故人の往く先が私たちの行いによって左右されないからこそ、私たちは純粋な心で、この法要の本当の意義と向き合うことができるのです。

浄土真宗における四十九日(満中陰)の法要は、故人が私たちに残してくださった、かけがえのないご縁(仏縁)です。それは、故人がその身をもって、遺された私たちに「あなた自身の“いのちの終わり”は、いったいどうなるのですか(後生の一大事)」と、問いかけてくださっている、最後の、そして最も尊い教えの場なのです。

【故人が信心をいただいていなかったと感じる方へ】

「故人は生前、仏法にあまりご縁がなかった。そんな故人のために、私が何かできることはないだろうか」。そう思われるのは、故人を深く愛するが故の、当然のお気持ちです。

まず、故人の往生は、阿弥陀さまと故人ご自身との間のことであり、私たちの側からそれを推し量ることはできません。そして、私たちの信心や行いが、故人の往生を左右することもありません。

しかし、だからこそ、私たちにできる最も尊いことがあります。それは、故人が遺してくださったこの「死」というご縁を無駄にせず、この私自身が、阿弥陀さまの教えに出遇い、お念仏を申す身となり、この世で本当の安心(信心)をいただいて、お浄土へ往き生まれる身になることです。

私が救われること。 これこそが、故人が遺してくださったいのちのご縁に対する、最高の報恩感謝となるのです。それは、故人の願いに、私たちの人生をもって応えていく道に他なりません。

この四十九日(満中陰)の法要は、故人のためというよりも、故人とのご縁に感謝し、その故人の願いに応えるべく、この私自身が仏法を聴聞し、救われていくための、かけがえのない大切な機会なのです。「忌明け」という言葉も、故人のことが決まる区切りではなく、私たちが悲しみの中に仏法を聴聞し続け、新たな一歩を踏み出すための区切りと受け止めさせていただきましょう。

この法要を大切にお勤めさせていただくことは、故人への感謝であると共に、この私の「いのちの本当のゆくえ」が定まる、人生で最も意義深い営みとなるのです。