
【五七日法要】三十五日目のつどい、慈しみに包まれ、いのちの本当のゆくえを願う心
五七日法要の意味と、阿弥陀さまの慈しみに包まれながら自らの「いのちの本当のゆくえ」についてみ教えを聞かせていただくことの大切さ、そして、この日に法要を切り上げるという考え方の誤解についてもお伝えします。
故人がこの世のいのちを終えられてから三十五日目、五回目の七日ごとのお勤めが「五七日(いつなぬか)法要」です。他宗の十王信仰では、この頃に閻魔大王による審判があるとされ、特に重要な日として手厚い追善供養が営まれることがありますが、浄土真宗では、故人はすでに阿弥陀さまのお力によってお浄土へ往き生まれておられますので、そのような心配は一切ございません。
この時期、少しずつ心の落ち着きを取り戻される方がいらっしゃるかもしれませんが、寂しさや故人を恋しく思う気持ちは、簡単には消えるものではありません。この法要も、故人というかけがえのないご縁をいただき、阿弥陀さまの限りなく大きく深い慈しみの温かさに触れ、そのお育てにあずからせていただく大切な機会です。日々の忙しい生活の中でともすれば忘れがちになる感謝の気持ちを思い起こし、お念仏を相続させていただくことの喜びを静かに味わい、自分自身の「いのちの本当のゆくえ(後生の一大事)」に真摯に向き合うひとときといたします。
ところで、一部の地域には、この三十五日をもって中陰の区切り(忌明け)とする慣習や迷信がございます。これは、ご逝去から四十九日までの期間が三つの月にまたがる「三月(みつき)」になることを、「身付き(みつき)」という語呂合わせで「身に付く(=縁起が悪い)」とこじつけ、それを避けるために三十五日で切り上げるという考え方から生まれたものです。しかし、これは語呂合わせから生まれた迷信であり、仏教の教え、ましてや浄土真宗の教えとは一切関係がございません。
浄土真宗における中陰の期間は、故人のためではなく、遺された私たちが、故人を偲び、繰り返し仏法を聴聞することで、心の安らぎと生きる智慧をいただくための、かけがえのない大切な時間です。もちろん、現代の生活の中で七日ごとのお勤めが難しい場合もございます。その際は、ご住職にご相談の上、お参りの形を工夫することも可能です。大切なのは、迷信に惑わされることなく、故人が遺してくださったこの尊いご縁を、私たち自身の学びの時として、最後まで大切にさせていただく心です。この法要という尊いご縁をいただくことが、今の私たちを支え、未来への確かな希望となる、意義深い精神的な営みとなるのです。
