無常の炎の向こうに ~火葬場での読経(火屋勤行)~

火葬場での最後のお別れで行われる「火屋勤行」。それは、いのちの「無常」という厳粛な真実と向き合い、故人さまが阿弥陀さまの永遠の光に摂め取られたことを確認する、深い悲しみと確かな安心が共存する儀式です。

ご葬儀を終え、故人さまを乗せた霊柩車が火葬場に到着する時、ご遺族の悲しみは頂点に達するかもしれません。慣れ親しんだ故人さまのお身体と、この世で本当にお別れしなければならない。その厳粛な現実を目の当たりにするのが、火葬場での儀式です。

この、ご遺体を荼毘に付す直前に、炉の前で執り行われる最後のお勤めが「火屋勤行(ひやごんぎょう)」です。それは、私たちにとって最も辛く、そして最も大切な、二つの真実に向き合う時間となります。

一つは、目に見える真実、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」です。 この世に生を受けたすべてのものは、常に移り変わり、いつか必ず滅していく。愛する故人さまのお身体も、そして私たち自身の身体もまた、この厳粛な自然の理(ことわり)から逃れることはできません。燃え盛る無常の炎は、その真実を、私たちに有無を言わさず見せつけます。

しかし、浄土真宗の教えは、目に見えるものがすべてではないと教えてくださいます。火屋勤行は、もう一つの、み教えによって聞かせていただく真実、「常住不変(じょうじゅうふへん)の救い」を確認させていただくための、かけがえのないご縁なのです。

故人さまは、お身体こそ無常の理にしたがわれましたが、その「いのち」は決して虚しく消え去ったのではありません。いのち終えると同時に、阿弥陀さまの限りない慈悲の光に摂め取られ、一切の苦しみや迷いを超えるお浄土で、永遠のいのちを持つ仏さまとして、すでに生まれさせていただいているのです。

この火屋勤行は、故人さまを無事に火葬するための儀式ではありません。 燃え盛る「無常」の炎を前にして、私たちは、決して揺らぐことのない阿弥陀さまの「常住」の救いを、お念仏の声として表明するのです。「南無阿弥陀仏」とお称えするその声は、悲しみにくれる私たちの口から発せられながらも、それは私たちを支え、故人さまと同じく、必ずお浄土へ迎え摂ってくださるという、阿弥陀さまからの呼び声でもあります。

辛く悲しいお別れの時が、仏さまの深い智慧と慈悲に触れる、最も尊い仏法聴聞(ぶっぽうちょうもん)の場となる。それが、浄土真宗における火屋勤行の心です。

それでは、次の「【火屋勤行の意味】火葬の場で、いのちの無常と仏さまの永遠のはたらきを思う」のページで、このお勤めが私たちに教えてくださる深い智慧について、さらに学んでまいりましょう。