
【一周忌から五十回忌まで】故人と共に歩む、年忌法要の深い意味
一周忌、三回忌、七回忌…と続く年忌法要。それぞれの法要が持つ、私たちの人生の節目としての深い意味と、故人を縁として仏法を聞くという浄土真宗の心のあり方、そして「弔い上げ」について解説します。
年忌法要は、故人を縁として、遺された私たちが阿弥陀さまの広大なお慈悲に改めて感謝し、その教えを聞き、お念仏申す身としての喜びを味わう、報恩感謝の仏事です。それは、故人が私たちに遺してくださった、生涯をかけた「心の学びの場」に他なりません。 巷でいわれる十王・十三仏信仰のような、故人の成仏を願う追善供養とは異なり、浄土真宗の年忌法要は、私たちの人生の歩みそのものに寄り添い、その時々で私たちを育ててくださる、かけがえのない節目なのです。
【各年忌法要の節目としての意義】
- 一周忌(満一年目): 故人がお浄土へ往かれて最初の大きな節目。まだ癒えぬ深い悲しみの中、故人のいない現実と正面から向き合い、いのちの儚さと尊さを、あらためて深く受け止めさせていただくご縁です。
- 三回忌(満二年目): 「石の上にも三年」というように、少しずつ心の整理がつき始める一方で、ふとした瞬間に寂しさが募る時期。故人との温かい思い出を語り合う中で、悲しみが感謝の思いへと少しずつ転換していく、大切な節目です。
- 七回忌(満六年目): より落ち着いた心で、故人の生き様や、遺してくださった言葉の意味を、深くかみしめることができるようになる頃。故人の存在が、私たちの人生の確かな指針となっていることを再確認するご縁です。
- 十三回忌(満十二年目): 故人を知らない子どもや孫の世代も増えてくるかもしれません。故人の思い出を語り継ぎ、この仏法のご縁を、次の世代へと伝えていくことの大切さを思う機縁となります。
- 十七回忌(満十六年目): 時の流れの速さを感じつつ、故人とのご縁が、今も変わらず私たちを仏法へと導いてくださっていることに、静かに手を合わせ、感謝するひとときです。
- 二十三回忌(満二十二年目): 私たち自身の人生経験も豊かになり、若い頃には気づかなかった、親鸞聖人の教えの深い味わいが感じられるようになる頃かもしれません。
- 二十五回忌(満二十四年目): 四半世紀という大きな節目です。この法要は、私たちが故人の思い出を語り、そのお人柄を伝えることで、故人が結んでくださったお念仏の教えのバトンを、次の世代へと手渡していく、かけがえのない機会となります。
- 二十七回忌(満二十六年目): 長年お念仏のみ教えに触れ、仏法を聴聞する生活を続けてきた中で、阿弥陀さまのお救いを信じ、お念仏申すことの中にこそ、この現世で私たちがいただく本当の利益(現生十益)があることを、深く実感するご縁です。
- 三十三回忌(満三十二年目): 故人を偲び、仏法を聞き続けてこられた年月は、そのまま私たちの人生の深まりと重なります。故人が結んでくださったお念仏の教えが、世代を超えて受け継がれていることの尊さを、しみじみと感じることでしょう。
- 五十回忌(満四十九年目): 半世紀という大変大きな節目を迎えるこの法要は、重ねてきた年月が、深い悲しみを、故人と出遇えたことへの温かい感謝と、お浄土での再会を慶ぶ心へと静かに**昇華(しょうげ)**させ、故人が仏となられたことを皆で喜び、お祝いする、おめでたい「お斎(おとき)」の席としての意味合いを持ちます。ここ富山県では、お祝いの気持ちを込めて「鯛の蒲鉾」が、また富山以外では「鯛のお頭(塩焼き)」がお斎に出されるなど、地域ごとに特色ある温かい風習が今も大切に受け継がれています。
【年忌法要の区切り(弔い上げ・上げ法事)について】 浄土真宗では、仏法を聞くご縁は尽きることがないため、厳密な「弔い上げ」はありません。しかし、様々なご事情から、三十三回忌や五十回忌などを一つの区切りとされる場合、その長年の感謝を表す「上げ法事」をお勤めすることがあります。これは供養を打ち切るという意味ではなく、これまでのご恩への深い感謝と、これからも仏法を依り処として生きていくことを、あらためて心に定める大切な節目です。特に五十回忌をもって「上げ法事」とされる場合は、お祝いの席として、皆で故人のご遺徳と仏法のご縁を慶ばせていただく、大変尊い機会となります。
お布施について:私たちが、お寺を支えるということ
私たちは、ご法事などの際にお預かりする懇志(お布施)について、その意味を丁寧にご説明し、透明性を確保することを何よりも大切にしています。それは、皆様から寄せられるお心遣いが、単なる「支払い」ではなく、かけがえのない価値を持つ、未来への参加であると確信しているからです。
お寺は、人生の究極的な問いである**「いのちの本当のゆくえ」に、「教えの泉」である阿弥陀如来(本願力)からあふれ出る、確かで揺るぎない答え(智慧)を、ただ受け止めさせていただく、かけがえのない『井戸』なのです。
【人生の円熟期を迎えられた皆様へ:その尊いお心遣いへの、心からの敬意】
今日の日本の繁栄を築き、戦後の厳しい時代を生き抜いてこられた、人生の円熟期を迎えられた皆様こそが、今、私たちのお寺と、浄土真宗の教えを、今日まで護り伝えてくださっている、かけがえのない宝です。その皆様が、今は年金を糧に、一日一日を大切に暮らしておられる現実も、私たちは深く理解しております。
ですから、皆様がその限られた生活の中から、「次の世代のために」と、悩み、考え、お寄せくださるお心遣い(お布施)を、私たちは、特別な重みと、深い感謝をもって頂戴しております。それは、皆様の歩んでこられた人生そのものが凝縮された、まことの布施に他なりません。
今を生きる私たちが少しずつお支えすることで、深刻な少子化という課題に直面する未来の世代が、過大な負担を背負うことなく、いつでも帰ってこられる心の拠り所を持ち続けられるようにする。 それは、未来への深い慈しみが込められた、温かい「贈り物」なのです。
その尊いお気持ちに真摯に応えることこそ、私たちの最大の務めです。だからこそ、光顔寺は法務のレベルを維持し、向上させる研鑽を怠らず、また、皆様にご不安をおかけせぬよう、お心遣いの基本となる額を事前にお伝えし、さらに「もし、ご事情がございましたら、どうかご遠慮なくご相談ください」と、お伝えしているのです。
金額の多寡によって阿弥陀さまのお慈悲が変わることは、決してございません。 故人を偲び、仏法を未来へ繋ごうとされる、そのお心そのものが、最も尊いのです。
【上げ法事という大きな節目のお心遣いについて】 五十回忌や「上げ法事」といった、長年にわたるお勤めの大きな節目に際しては、「これまでの感謝の総仕上げ」として、また「このご縁を、今度は私たちが次の世代のために」という、喜びに満ちたお気持ちから、通常の年忌法要の折よりも、少し篤くお心遣いをされるという温かい慣習もございますが、これもまた皆様のお気持ち次第です。
