
【祥月法要とは】年に一度の命日、故人のご恩とみ教えを深くかみしめる
年に一度巡ってくる故人の命日(祥月命日)に行う法要です。この日に故人のご恩と阿弥陀さまのみ教えを深くかみしめ、感謝の念を新たにする意義をお伝えします。
「祥月法要(しょうつきほうよう)」とは、故人がこの世のいのちを終えられた月日と同じ月日、つまり年に一度巡ってくるご命日(祥月命日)にお勤めする法要のことです。一周忌や三回忌といった年忌法要をお勤めする年以外の、毎年のご命日に行われます。
この祥月命日は、一年の中で、特に深く故人を偲び、その方が私たちに遺してくださった数々の温かい思い出を、改めて心に深くかみしめる大切な一日です。そして浄土真宗においては、その深い思いと共に、故人がご縁となって私たちに示してくださった阿弥陀さまのみ教えに、改めて真摯に耳を傾ける尊い機会といたします。
故人はすでに阿弥陀さまの光明の中にあり、仏さまとして私たちを常に見守りお育てくださっています(還相回向)。ですから、祥月法要は、故人の冥福を祈る追善供養ではありません。むしろ、故人がお浄土から私たちを見守ってくださっているそのお徳を讃え、感謝する法要なのです。
年に一度、この日に静かにお仏壇の前に座る時、私たちはこの一年間の自分自身の歩みを振り返るご縁をいただきます。故人が遺してくださった温かい思い出を胸に、私たちは、あの日からどれだけ歩んでくることができただろうか。お念仏の教えを、日々の生活の中でどれだけ大切にできていただろうか。祥月法要は、故人を鏡として、私たち自身の生き方を静かに見つめ直し、阿弥陀さまの変わらないお慈悲に立ち返るための、年に一度の、大切な心の「現在地確認」なのです。
【お布施(懇志)について:私たちが、お寺を支えるということ】
私たちは、ご法事などの際にお預かりする懇志(お布施)について、その意味を丁寧にご説明し、透明性を確保することを何よりも大切にしています。それは、皆様から寄せられるお心遣いが、単なる「支払い」ではなく、かけがえのない価値を持つ、未来への参加であると確信しているからです。
その答えは、「お寺が、私たちの人生にとって、かけがえのない『精神的な公共財』だから」です。お寺は、人生の究極的な問いである「いのちの本当のゆくえ」に、阿弥陀さまの智慧という、確かで揺るぎない答えをいただくことができる、かけがえのない『井戸』なのです。
この「井戸」であるお寺を護持し、僧侶が研鑽を積んで法務のレベルを維持・向上させていくためには、皆様からのお支えが不可欠です。だからこそ光顔寺では、そのお心遣いの基本となる額を、責任をもってお示しし、**「もし、ご事情でお気持ちを寄せることが難しい場合は、どうかご遠慮なくご相談ください」**と、必ずお伝えしています。
年金暮らしの中から「それでも」と寄せられるお心遣いも、大きな額のお心遣いも、その報恩感謝の心において、価値に一切の違いはございません。 故人を偲び、仏法を未来へ繋ごうとされるその尊いお気持ちに、私たちは真摯に応えさせていただきます。
