仏教ブログ

令和になっても変わらないもの2019年05月29日 18:05

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の記事で、平成から令和に変わったことを通じて、時代の変化と仏教について書きました。

仏教では、時代が変わっても変わらないものとして三つあげられたものがあります。それが「三法印(さんぽういん)」といわれるものです。これは仏教の根本真理を三つにあらわしたもので、仏教の旗印(法印)といわれます。旗印とは、昔の戦場での目印としたもので、有名なもので言えば豊臣秀吉の千成瓢箪や、真田家の六文銭などがあります。それを見ると、どういうものか一目でわかるようになっています。

仏教の旗印ということは、これを見ると仏教という教えがどういうものかわかると言うものです。

具体的には、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つをいいます。

今回は、その最初の諸行無常について書きます。

諸行とは、あらゆるものという意味です。無常とは、いつまでも変わらないものはない、同じ状態は続かず常に変化をしていくということです。

すでに令和となってもう少しで一ヶ月になろうとしています。しかし、振り返って見ると改元の日の大騒ぎはなんだったのかと思うほど、以前と変わらない日が続いているという人も多いかと思います。しかし、令和に入ってから本日まででも、痛ましい事故で亡くなった方も多く有ります。そういう事故などは、元号と関係なくいつどこで起きるか分からないものです。

改元の日の大騒ぎも続きませんし、またいつまでも変わらないと思っている日常もまた続きません。そのように、あらゆるものは全く同じ状態では有り続けることはないというのが諸行無常ということです。その諸行無常ということは、いつの時代になっても変わらないと教えられるのが仏教です。

社会や環境の変化も続きますが、一番変わりやすいもの、無常なものというのは、この私の命です。人生100年時代とも言われますが、いつまで生きられるという保証もありません。また、このころには死んでいるはずという予定も立ちません。そういう意味では「こんな筈ではなかった」ということが、人の苦しみの多くの原因の一つには違いありません。そして、予定がどうあれ死なない人はいません。

そこで、仏教では、物事は常に変わり続けているものであり、いつまでも続くものは何一つないと教えられます。そして、浄土真宗では、全てが無常の世界にいる私たちは、常住の浄土に往生すべきであると教えられます。私が命が無常であるということは変わりませんが、変わらない浄土があるということも変わりません。浄土往生の救いにあって下さいと勧められているのが浄土真宗です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

平成から令和へ。時代の変化と仏教について。2019年05月01日 15:05

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

本日、2019年05月01日に平成から令和へと元号が変わりました。そのため、2019年に入ってからは「平成最後の」とか「平成30年を振り返る」という言葉をよく目にするようになりました。また、新元号が発表された日は新聞の号外を奪いあうように手にする人の姿も報道されていました。

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そのような現状を見ると元号が変わるというのは、日本人にとって一つの時代の区切りから何か変わるような感じもします。しかし、西暦で言えば2019年の4月から5月に変わっただけで、一個人の人生に何か変化があるということはありません。

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しかし、仏教ではある時代の区切りが仏教の教えを聞き救いを求める人にとって大変大きく変わってきました。

それが、「三時説」と言われるものです。三時というのは、お釈迦さまがこの世を去られた後に、時間の経過によっていろいろと変わってくることを、三つの時代の区分によってあらわされたものです。

その三つとは、「正法(しょうぼう)」「像法(ぞうぼう)」「末法」のことです。

正法とは、お釈迦さまがこの世を去られてから500年(1000年説もあり)のことで、お釈迦さまの教えもあり、それを実践(修行)する人もあり、証(さとり)を開く人もいる時代です。

像法とは、正法の後1000年の間のことで、お釈迦さまの教えも、実践する人もいるけれども、証を開く人がいなくなる時代です。

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末法とは、像法の後、1万年の間をことで、お釈迦さまの教えは有るけれども、実践する人も、証を開く人もいなくなる時代のことです。

現代は、それでいえば末法になります。しかも、末法になって随分時間がたっています。しかし、正法から像法に変わる時、また像法から末法に変わった時の仏教徒の心中を考えると、とても大きな変化があったに違いありません。なぜなら、証をひらくことが出来なくなったと言うことですから、言い方を変えると「仏教で救われない」ということになるからです。

浄土真宗を開かれた親鸞聖人も、その時代の変化による危機感を大変強く持っておられた方でした。末法の世に、自分が救われる道が果たしてあるのだろうかということを真剣に悩まれていました。そこで、当時修行もできない末法の世の人間が救われる道は、南無阿弥陀仏の救いしかないと説かれる法然聖人にであわれて、南無阿弥陀仏による救いにあわれました。

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教えを聞き、その通りに実践し(出家や厳しい修行)、証をひらく道を法然聖人は「聖道門」と言われました。ある限られた人しか進むことが出来ないという意味です。それに対して「浄土門」はどんな人でも救われる道です。ですから、どれだけ時代が変わっても、元号が変わっても、変わらずどんな人も救われる法が、南無阿弥陀仏の救いであると示されたのが親鸞聖人です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。