【仏教ブログ】18歳成人と自由について

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

改正民法が2022年4月1日に施行され、成人年齢が20歳から18歳に引き下げられました。これによって、一気に成人となる現在18歳、19歳は230万人に上るそうです。

お酒やタバコ、公営ギャンブルはこれまで通り20歳からですが、いろいろな契約は親の同意なしにできることとなるので、消費者トラブルにまきこまれないかと懸念の声が上がっています。

「成人」という言葉は、文字通り「人と成る」と書きます。身心が発達して一人前になった人だとされています。しかし、私の時は20歳で成人でしたが、成人式があっても「一人前になりました」という感じはありませんし、今でもそれは変わりません。

とはいえ、成人となると「これからは自分の自由だ」と思う若者もいることと思います。確かに、法律上はそうなる部分もあります。

しかし、仏教で「自由」という言葉は、 「好き勝手にできる」という意味ではありません。

「独立自存であること」「解脱してなにものにもとらわれない境地。さとりの境地」の意味があります。

そういう意味では、成人になっても仏教で言う「自由」な人はほとんどいないことになります。保護者から独立したといっても、何よりも自分自身にふりまわされるのが私という人間です。

これを凡夫といわれます。凡夫というのは、煩悩に日々煩わされるものと教えられています。

親鸞聖人は、「凡夫」についてこのように教えられています。

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「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず(一念多念証文)

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欲も多く、怒り、腹立ち、ねたむ心が多くそれらに振り回されて、それは臨終までとどまる事も消える事も絶えることもありません。そんな状態では、「自由」とは言い難いです。

ただ、そういう煩悩に振り回される私を、さわり無く救う仏様が阿弥陀仏です。ですから、親鸞聖人は「無碍光如来」ともいわれます。

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無碍と申すは、煩悩悪業にさへられず、やぶられぬをいふなり。(同)

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煩悩悪業に妨げられたり、破られない働きを「無碍」といわれます。その無碍光如来によって救われると、どれだけ煩悩があってもそれにさまたげられることなく浄土往生を遂げさせていただく身になります。

どんな状態であっても浄土往生定まる身にしていだくということは、なにものも妨げられないという意味で自由であり、ある意味での「成人」といえると思います。

年齢に関係なく、そうありたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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