【仏教ブログ】視点の逆転・金子みすゞ作品「さびしいとき」より

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

2022年1月にNHK・Eテレで放送された100分de名著は金子みすゞ詩集がテーマとなっていました。

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「こだまでしょうか」「私と小鳥と鈴と」「大漁」などの詩で知られ、今も読み継がれる詩人・金子みすゞ(1903-1930)。小さな命の愛しさ、人間の孤独、生きることへの希望をうたった詩を500余篇書きましたが、26年の短い生涯で一冊も詩集は出版されませんでした。(100分de名著より引用

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番組でも紹介されていましたが、金子みすゞの作品の特徴の一つが「視点の逆転」です。そのうちの一つを紹介します。

私がさびしいときに よその人は知らないの。

 私がさびしいときに お友だちは笑うの。

 私がさびしいときに お母さんはやさしいの。

 私がさびしいときに 仏さまはさびしいの。 

(金子みすゞ・さびしいとき)

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ここでは、「私がさびしいときに」と続けて、別の人はどうなのかということを視点を変えて書いています。

日ごろ私たちは、特にさびしいときには、自分中心の視点でしか物事を考える事ができなくなってしまいます。また、他人の立場に視点を変えても「よその人は知らないの」「お友だちは笑うの」としかなりません。現在も、「さびしい」人は多くいると思いますが、私はそれを知りません。また友達に「いまさびしいんだよね」と打ち明けられても、時には「気にしすぎだよ」と笑ってすごしてきたこともあると思います。

親の立場になってみると「お母さんはやさしいの」となります。子供がさびしそうにしていると、お母さんは子供を心配してやさしく接してくれます。

仏さまの視点になってみるとどうでしょうか?「仏さまはさびしいの」と書いてあります。私がさびしい時に、同じく「さびしい」となって下さるのは仏さまだけです。

そのように、「私がさびしいとき」に「お前がさびしいときが私もさびしいとき」と思って下さる方があることで、初めて「さびしい」が抜き取られることが起きます。

これを「仏の慈悲」といいます。その慈悲は、視点を逆転して仏の視点から見てみると知らされます。

自分がさびしいところにばかり目が行くと、実はそれをご覧になっている仏さまがおられることに気がつかなくなってしまいます。視点を変えてみてください。仏さまの慈悲は私にかかっています。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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